長曽我部蓉子 世紀末をさまよう迷い猫
皆さんお元気ですか?
相変わらず頑張っても派遣先の職場で怒られて、毎日胃がキリキリ。
自分でも気づかないうちにため息ばかりついていたらしく、新入りの女子(僕より12歳も年下)に「(辛気臭い気持ちになるので)今後私の前でため息ついたら金払って下さい」と冷たく言われてしまったtanosiikagakuです。
やってらんねえよと酒を飲んで寝るだけの空虚な日々の中でも、ピンク映画の「汚れと気楽さ」の中で輝いていた女優たちの記憶は、私を辛うじて現実につなぎとめてくれています。
今回も私の憧れと同一化の対象である女優と作品にスポットを当てていきたいと思います。
1990年代にムーブメントを生んだピンク四天王
さて、一回目のこの連載でピンク映画のDIYの精神をパンクの精神になぞらえましたが、その意味でのピンク映画のピークの一つは80年代後半から90年代だと思います。
この時代、アダルトビデオの興隆もあって産業としてのピンク映画界は氷河期を迎えていました。全国の成人映画館は減少し、80年代半ばには年間200本以上作られていたピンク映画もこの時期は年間150本ほどに落ち込んでいます。
そんな世の風潮の中、89年に瀬々敬久は『課外授業 暴行』で、サトウトシキは『獣―けだもの―』で、佐野和宏は『監禁 ワイセツな前戯』で相次いで監督デビューを飾ります。
独自の強靭な作家性に貫かれた作品を相次いで発表した彼らは、85年に『激愛!ロリータ密猟』でデビューしていた佐藤寿保と共に「ピンク四天王」と呼ばれました。
「ピンク四天王」は元々「興行不振の元凶である四人の監督」という揶揄を含んだ名称でしたが、それを逆手に取って自らそう名乗った彼らは作品をもって売り込みをかけ、93年にはアテネフラン文化センターでの特集上映「新日本作家主義列伝」を実現。
3か月ごと、1年間に渡って4人の監督が取り上げられ、全回が満席になるほどの大成功を収めました。
彼らの活動に共鳴した福間健二は、四人へのロングインタビューと論考からなる書籍「ピンク・ヌーヴェルヴァーグ」(ワイズ出版)を刊行。
他の映画館でも特集上映が組まれ、海外の映画祭にも招待されるなど、「ピンク四天王」は一つのムーブメントになりました(これで成人映画館に客が戻った、というわけではないのは皮肉なことですが)。
90年代後半になると佐野和宏と佐藤寿保は作家としては一旦活動が停滞しますが、瀬々敬久とサトウトシキの表現はよりカッティングエッジになり、オウムや阪神淡路大震災、神戸の児童殺傷事件などが起こった世紀末に生きる人間の実存をまさぐる作品を発表していきます。
この時期の作品は四天王の作品に限らず偏愛するものが多いのですが、今回はサトウトシキ監督『新宿♀日記 迷い猫』を取り上げたいと思います。
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