小児性愛の論点を整理する

小児性愛というワードは、海外での規制や、昨今Twitterで話題となったラブドールの件もあり、定期的に人々の関心を呼ぶ題材である。
そうした際に、表現の自由という論点が議論の対象になるが、小児性愛当事者の視点や、「子ども」という視点について十分に議論されることは少ない。
今回は視点を変えて、小児性愛当事者と子どもの論点について考察していきたいと思う。

この時点で、既に嫌悪感をもよおすような繊細な方は、記事を読まない方がいいだろう。ぜひ、自分の感情を自分でコントロールできるときに読んでもらいたい。

小児性愛の定義

はじめに、小児性愛(小児性愛障害)というのは、精神医学的な用語として定義がある。国際的な精神医学のガイドラインDSM-5(精神疾患の診断・統計マニュアル)では次のような診断基準がある。

・小児(通常13歳以下)を対象とする、反復的で性的興奮を引き起こす強い空想、衝動、行動を経験している。
強い苦痛を感じているか、日常生活に(職場、家庭内、または友人関係で)支障をきたしている、もしくは衝動を行動に移している。
・本人が16歳以上で、かつ空想または実際の行動の対象とする小児より5歳以上年上である。(ただし、12~13歳の小児と持続的な関係をもっている年長の青年は除く。)
・その状態が6カ月以上続いている。

要約すると、16歳以上の男性または女性が、13歳以下の児童に対して、性的興奮をもち、それを実行してしまう。もしくは、日常生活に支障をきたしている状態が6ヶ月以上続いているという状態だ。

この診断結果のポイントは、「実行に移す」と「日常生活に支障をきたす(強い苦痛)」という点である。正式名称の小児性愛障害という用語からもわかるように、障害というのはそれによって、社会生活において不利益を被る状態である。

例えば、現在眼鏡を多くの人が使用しているが、眼鏡がない時代であれば、眼鏡を必要とする人は日常生活に支障をきたしていたであろう。眼鏡がない時代であれば、視力が0.1の人は視覚障害であったかもれない。しかし、現在は日常生活に困らないので、視覚障害とは考えないのである。

これと同様に例えば、、小児ラブドールに性的な興奮を覚え、実際の児童にも性的な興奮を覚える人(小児性愛を持つ人とする)がいたとしても、その本人が自分の日常生活に支障をきたしておらず、実行に移したことがないのであれば、そもそも精神医学的な定義の意味での小児性愛障害ではないのである。

しかし、現実を見ると、病的な意味ではなくても、小児に興奮すること自体が異端しされており、小児性愛障害という病的な犯罪を起こした、または日常生活が困難な状態と、コントロール可能な小児への性興奮が一緒の枠組みで話し合われていることが、大きな混乱を招いていると考えられる。

つまるところ、小児性愛の定義は非常に狭い範囲であり、医学的な意味での小児性愛者(小児性愛障害)と、小児(ここでは13歳以下とする)に性的な興奮は覚えるが、実行にも移さず十分に自分でコントロール可能な人(ここからは、小児性愛非障害)を分けて考える必要がある。

これは、アルコールを嗜む人が全てアルコール依存症でないことや、異性に性的な興奮をする男性のすべてが犯罪を犯すわけではないのと同様である。

小児性愛障害と小児性愛非障害をなぜわけるのか

ここまで中で「小児性愛障害と非障害をなぜわけるのか?」、「地続きのものではないのか?」という疑問が、当然のように出てくることだろう。

この2つは当然、地続きであって、グラデーション的な状態である。例えば、犯罪は犯してないし、現状生活に支障を犯していないが、未来的に変化するのではないかという視点があるが、その視点はもちろん正しい。

ただ、全てを同一のものとして捉える視点とも大人るのは事実、分けることでグラデーションがうまれ、このように考えることで、一様に排除をするという発想を招かずにすむ。

小児性愛非障害

上の図は、13歳以下に性的な興奮を覚える人々を群として表したものである。犯罪を犯すというのは13歳以下に性的な興奮を覚える中で一部だという意味である。

一般的な異性愛者の男性と比べるとの男性は女性で性的な興奮を覚えるが、そこから、強姦や強制わいせつへと犯罪に手を染めることは稀である。男性であるからといって、犯罪者予備軍であるということはないだろう。同様に13歳以下に性的な興奮を覚えるからといってすぐさま、犯罪に手を染めるもしくは、日常生活が苦痛になるとはあまりにも考えにくい。

実際に平成26年の強姦の検挙件数は1029件、強制わいせつは4149件と全体数から見れば、性的な興奮を覚えるものはすべて、犯罪をするとは到底言えない。


同様に、13歳以下に性的な興奮を覚える人々も、犯罪を犯す人は一部であるといえる。かなわぬ性的興奮であるから、犯罪率が高くなるのではないかという憶測も、国立社会保障・人口問題研究所が行っている「出生動向基本調査」において、18歳から39歳の童貞率(一度も性行為をしたことがない男性)が25.8%であることを考えると、実際にそうした要因が多少あったとしても、性行為ができないことが、犯罪への要求を高めるという、主張自体があまり意味のないものになる。性衝動はコントロール可能であり、犯罪にすべて繋がるわけではないということである。

そもそも、犯罪社会学や犯罪心理学によれば、犯罪を犯す原因というのは多様であって、例えば貧困であれば犯罪を犯すというのは非常に極端な結論である。たしかに、貧困層の犯罪率が高く、所得による負の相関があることが指摘されている。(Lee, M. (2000) “Concentrated Poverty, Race, and Homicide” The Sociological Quarterly, Vol.41, No.2, pp.189-206など)

しかし、だからといって貧困者は犯罪者予備軍なのだという結論は乱暴すぎるものであるし、貧困者の一部はその環境から犯罪に行きやすいという当たり前の結論に行くだけであって、貧困者が犯罪者になりやすいからといって差別、弾圧というのは、黒人の方が白人よりも犯罪率が高いので黒人は排除してもよいと言っているのと同義である。

つまり、小児性愛非障害という13歳以下に性的な興奮を覚える状態は成人の女性が好きな人々と同様に、犯罪につながる可能性があるのは当然であるし、犯罪につながるといって、排除するという方向になってはいけないのもこれもまた当然である。

小児性愛障害と小児性愛非障害を分けることは、小児性愛障害のように犯罪を犯したり、日常生活が苦になるほどの人が特別な支援を必要とするということを表すためである。これは小児性愛全体が同様の議論になるということを避け、小児性愛に対する社会の理解を進める必要がある。

さて、ここまででは、ごく当たり前なことを述べてきた。しかし、当たり前であるがゆえに、でも...と思っているものもいるだろう。なぜなら小児性愛というのは、他の状況と違い、最大の課題として「子ども」という点がある。多くの人がこの「子ども」であるから、過剰に反応するといってもいいだろう。そのため、この「子ども」がなぜ課題なのかを次の章では考察する。

愛され守られるべき子どもという視点

子どもという存在(特に13歳未満)に対する性的な興奮に関してこのような法律がある。

第177条(強制性交等)
十三歳以上の者に対し、暴行又は脅迫を用いて性交、肛門性行交又は口腔性交(以下「性交等」という。)をした者は、強制性交等の罪とし、五年以上の有期懲役に処する。十三歳未満の者に対し、性交等をした者も同様とする。

13歳以上に無理矢理(同意させて)性行為をすることは強制性交等という罪になる。13歳未満の場合は、同意を例えしたとしても、同様の罪であるという法律である。

つまり、これは13歳未満と性的な興奮を覚えるのがおかしいという意味ではなく、13歳未満というのは同意することができないという法律的なロジックである。

民法であれば、意思決定の制限が未成年にはある。(行為能力制限者)同様に、刑法では13歳未満は性行為を同意することができないと考えているのである。

よく女子高生の援助交際が問題となるように、本来私たちは互いの同意があれば自由に契約を結べるはずである。しかし女子高生のように、未成年であれば、この自由な契約が制限されているため、援助交際が問題となるのである。

元々人権という思想は、近代以降ヨーロッパを中心に世界に広がっていった概念であり、いわゆる「人は生まれながらにして権利を持つ」というものである。

しかし、生まれながらにして権利を持つが、赤ちゃんなどがその権利を行使することができるとは到底思えない。そのために小さいうち(子どもの間)は保護をして、教育をし、権利を行使できる主体となるように育てるのだという視点が生まれたのである(子どもというまなざしの誕生)

社会史で有名なフィリップ・アリエスによると、近代以降に注目されるようになった「子ども」とは、1つに、愛され守られるべき存在として、2つに、教育されるべき主体としてみなされるようになったという。つまり、労働や性行為、階級といった社会から隔離され、そうした要素を排した学校に通うことで子どもを守り、また家族も子どもたちを守り育てる機能をもつようになっていったのである。

(フィリップ・アリエス著 杉山光信・杉山恵美子訳(1980)『<子供>の誕生ーアンシァン・レジーム期の子供と家族生活』みすず書房)

実際に、現在の子どもの権利条約の4本柱を見てみると、非常にわかりやすい。ユニセフによると子どもの権利は大きく分けて、①生きる権利②育つ権利③守られる権利④参加する権利の4つである。

参加をする権利だけは、能動的な権利、つまり自ら行使する権利であるが、それ以外は受動的な権利であり、与えられる権利である。しかも権利の中身を見ていくと、労働や暴力、性搾取などから守られ、養えないからといって親の都合で殺されてしまうこともなく、病気や怪我から体をまもられ、教育を受け、大人になっていくという内容である。

こうした、近代以降の社会の変化の中で、小児性愛というのが発見されていったと推測される。守るべき対象を性行為の対象にされては困るということである。
そもそも、性や暴力、労働から隔離しているのにも関わらず、実行しようとするならばそれから守ろうとするのは当然の流れだと理解できる。

近代以降長く時が流れ、子どもの権利条約が制定され、より子どもの権利というものが理解されるようになってきた。このような時代の変化が、小児ラブドールをスリスリしている漫画を上げるだけで、犯罪を犯していないにも関わらず、非難がでるという状況の土台になったのである。これはひとえに、子どもを守らないといけないのだと強い価値観と、その守る対象を性的な目で見るのはおかしいという価値観の醸成がある。

つまりLGBTや、成人同士の異性愛と大きく異なるのは、実際の対象とかなうことのない性興奮という状態だけでなく、その対象を守らなければならないという状態が、小児に対する性興奮に対して、強い攻撃性を生んでいるのである。

小児性愛非障害の当人たちからすれば、「自分で楽しむぐらい勘弁してくれよ」と思うところであるが、小児性愛非障害の言動が人目に付き始めると、この「愛され守られるべき子ども」という視点が影響し、何度でも爆発する状態であると言っていいだろう。

ただ、近年、少年法の厳罰化のように、子どもを守る法律を特権的とみなし、子どもを守るべきではなく、子どもにも主体的に責任を負わせることができるという考え方も広がっている。愛され守られるべき子ども、教育をされるべき子どもというまなざしが揺らぎ始めているという点については、今後も議論が必要だろう。

当事者の論点 ゾーニングから

ゾーニングとは、簡単に言えば、アルコールやタバコなどの年齢制限のように、年齢によって商品の購入などを区分けすることである。今回の記事に関して言えば、性に関して隔離されている少年少女たちが、性行為が直接描写されている作品を購入できないようにするといったことが代表的である。

例えば、Twitterでは、12歳以下の使用は禁止されている。つまり、ゾーニングされているわけだが、こうしたプラットフォームでは小児性愛非障害の人も自由に発言できるはずである。

しかし、13歳未満の性的興奮については別の問題がある、それは実際の児童への被害という観点である。例えば、実際の児童が襲われた事件において、その児童への性的興奮をイラスト化したり、文字化することは、何らかの形で本人が見た場合に二次被害につながると主張されるのである。

つまり、実態ないものについて、想像を文字化する、イラスト化するのは自由であるが、実態がある児童に対する性的な言動を共有することは常に制限されるのである。簡単に言えば、社会全体に対する児童への配慮の強要があるといえる。(社会の学校化現象)

もちろん、実際の児童への被害がないように、社会が配慮すること自体は現代の人権思想を基盤とする社会において、特に子どもを守ろうという価値観が強いのであれば、必須といえる。

このような配慮はどこまで必要だと言えるのだろうか。おそらくこれが、議論の論点の1つとなるであろう。現時点で実際の児童への被害のみに配慮をする必要があるとは言えそうでなので、本人が特定できるような小児への性興奮の文字化やイラスト化はやめておく必要がありそうだ。

さて、最後にもう一つの論点がある。当事者以外の視点である。

当事者以外の論点 恐怖心のコントロール

人間は多くの感情を持っている。これら感情が様々な物語を産み、想像力を働かせ、多様な芸術や文化を生み出してきたのは疑いようもない。しかし、一方で、感情は差別や偏見も強く生み出していることも否定できない。

多くの子どもを持つ親は、小児に性的な興奮を覚える人を怖いと感じてしまう。それは、「愛され守られるべき子ども」という近代以降に作り上げられてきた子ども観をベースとした社会にいる以上理解できるものである。そして、自分の子どもが被害にあったらどうしようかという恐怖心があると考えるのは不思議ではないだろう。

それら恐怖心は十二分に理解できるものであるが、だからといってその恐怖心をコントロールせず、ただ暴走させてしまうというのはそれは、犯罪にも繋がる危険な行為である。

会社で上司が鬱陶しいからといって、突然殺してしまうような人物というのは稀であるし、「殺してやりたい」と心で思っていても口に出すことはまずないだろう。陰口を叩くようなことはあるかもしれないが、それは自分の欲求のコントロールがある程度できているためである。

しかし、恐怖心に関してはあまりコントロールがされない。例えば、小児性愛に関するツイートを見た時に、恐怖心の感情がコントロール不能になり、本人に見える形で暴言などの攻撃、言い換えるなら犯罪行為をし始めてしまうのである。

精々、Twitterなどであればブロックをする、無視をするなどして自分の感情のコントロールに努めればよいものを、コントロール不能な状態からさらに暴走させ、排除や犯罪の正当化に思考を巡らせてしまう。

これはひとえにに恐怖心のコントロールが不在になってしまい、手が付けられない状態になっているといえる。

例えば、小児性愛非障害の人でも、実際の幼児に手を出しそうになる、日常生活に支障が出始めるのであれば、つまり欲望のコントロールが不在になりそうになるのであれば、自分の今の環境やストレスの状態などを見直し、仕事を変えるなどの自らコントロール可能な環境などを変えることで、欲望のコントロールが必要である。

それと同様に、今怒りに燃えている人は、今すぐにこの記事を読むのをやめ、気持ちのリラックスする音楽を流したり、甘いものを食べるなどして一度落ち着く必要がある。このように、自らの感情や欲望のコントロールがある程度必要である。

犯罪を恐ろしいと思う感情は、当然であるし、自分の倫理観とずれるものは悪い奴なんだと思うことは、公正世界仮説といった心理学の理論でも繰り返し研究されているように、よく起こる現象である。しかし、繰り返し様々なところで主張されている通り、怖いと思っている自分自身を認識したり、知識的なサポートを得ることで十分にコントロール可能である。

一時期、HIVという病気がはやった時は、知識不足と恐怖心からコントロールを失い、患者に対する排除の運動が広まってしまった。現在は知識的な広まりもあり、落ち着きを得ているが、このような例はハンセン病などでも見かけた現象である。

そのため、非常に難しい問題であるが、多くの人が自らの感情をある程度コントロールするべきだということが、小児性愛に関する議論の1つの論点になるだろう。同時に小児性愛に対する知識的な理解も広めることが、より包摂的な社会につながるのかもしれない。

まとめに変えて

ここまで読んでいただいた読者の中にはお気づきの方もいるかもしれないが、筆者自身が小児性愛者、当事者である。むしろ、13歳未満にしか興味がないといっても過言ではない。しかし、だからこそ子どもが関わる教育問題に対して、強い興味を持続させることができたと自負している。

小児性愛の当事者の人々も、それ以外の人々も、もちろん子どもも包摂される社会とはどのようなものであるのか、想像する必要があるように思われる。



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