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39,チンギスハン陵


チンギスハンは今でもモンゴル族の英雄。その陵はオルドスのほぼ中央のイジンホロというところにある。東勝から南に車で1時間。前述のとおり、チンギスハンが西夏遠征時に鞭を落としたとされるところ。今は古代のモンゴル宮殿を模した3つのドームを有する巨大な建物が聳え立っている。実際はここにチンギスハンが眠っているわけではないが、年に4回祭事が執り行なわれ、モンゴル民族の聖地となっている。ボクは何度もこの陵を訪れたが、特に早春の祭事を学校の先生たちと見に行ったときは印象深かった。

その日は朝から、日本語を勉強している先生とその夫、小学校2、3年くらいの子供と一緒に車をチャーターしてチンギスハン陵へ向かった。車窓から周りを見渡すと東勝の周りのような地層がむき出しの浸食溝はあまり見られない。乾燥した大地に所々木が生い茂っている。アフリカのサバンナのような風景が続いた。オルドスの冬はひたすら茶褐色の大地、単色の世界だったが、その時はちょうどポプラの葉が芽吹く頃で、緑がまぶしい。

1時間で陵まで着いた。すでに大勢の人が詰め掛けていた。ボクらは普段着だったが、さすがに祭りの日、モンゴル衣装を身にまとった人が多かった。馬で駆けつけていた人もいた。陵の外側ではラマ僧がお経を唱えている。その周りには熱心な信者が懸命に祈りを捧げている。モンゴル族は清朝の頃からラマ教を信じるようになったという。でもここはチンギスハンの陵、少し違和感があった。

陵の中に入ると、先祖代々チンギスハン陵の「墓守」を続ける「ダルハット」と呼ばれる人たちによる儀式が行われていた。正面の真ん中のドームには巨大なチンギスハンの像が祭られてある。その前に祭壇があり、そこに酒や羊や様々な装飾品が供えられていた。

「ダルハット」たちがチンギスハンの業績を称え、人々の平和を祈る経典を唱える。儀式が一段落すると、祭壇に供えられていた酒が下ろされる。「大王」と慕っているチンギスハンの酒を酌み交わすことで、それぞれの血のつながりと固い絆を確かめ合う。そして、再びお経が唱えれらる。ドームの奥のほうに行くと、今度はフビライを祭る祭壇があり、そこでも多くの人が跪きながら、何事か祈っていた。

宮殿の外に出た。至るところにモンゴル文字が書いてある。連れの先生が1つ1つ意味を教えてくれた。ボクにとってはさっぱり読めない代物。但し、上から下に豪快に一筆書きで書かれている文字を見るのは気持ちいい。この文字、実は13世紀、モンゴル軍がイスラム圏に進行したときにイスラム文字を持ち帰り、元々横文字なのを縦文字に改良して取り入れたのが始まりだという。なるほど横向きにしてみると何となく、イスラム文字っぽくなる。また、1つ勉強になった。

中庭の中央には大きな樽が置いてあった。人々はその中に持ってきた自家製の「馬乳酒」を流し込む。やがてその樽が馬乳酒でいっぱいになり、それが零れる方角に幸があるという。どの方角に零れるか、最後まで見ていたかったが、まだ酒は3割ほどしか入っていない。後3、4時間は待たなければ拝めそうにない。それは諦めて、陵の外で羊料理を食べた。

羊を食べながら、先生の夫の話に耳を傾けた。その人は歴史が専門。得意げに今日の儀式の重要性を説いていた。やがて話はモンゴル族誕生の伝承へと変わっていく。「天より降りてきた青き狼、そして白い雌鹿。大いなる湖を渡り、モンゴルの地にやって来た。そして子を授かった。モンゴル族は目に火あり、面に光ある青き狼の子孫である。」調子よく話は進む。「青き狼の軍団は恐れを知らなかった。モンゴル軍は陰山山脈を越え、黄河を渡り、オルドスの高原に進行してきた。そして西夏を滅ぼし、宋や金を攻め中原を落とし、更にヨーロッパへ至る一大帝国を築いたのである。」そう得意げに言った後、ため息を一つ。

「だが、モンゴル帝国は歴史から消えた。」それを境に自慢話から自虐話に変わった。「最近のモンゴル族には馬に乗れない者もいる。モンゴル語を話そうとしない若者が多い。男は酒ばかり飲み、まともに働こうとしない。・・・。」笑いながら肩をすくめた。そして最後に「でも、何とかしなきゃね。」と自分に言い聞かせるように呟いた。

いつまでも過去の栄光にすがってはいられないという強い意志を感じた。

チンギスハン陵の外観
フビライが祭られているところ
ラマ僧の祈祷


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