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31,文通大作戦

1992年8月末。生徒たちは高校2年生。2年目の目標は彼らに実際に日本語を使う喜びを味あわせること。教室の中の活動だけで終わらせたくない。いろいろ考えていたが、その第1弾は「文通大作戦」。

日本からの「モンゴル体験ツアー」の一行が来たとき、学校はまだ夏休み。残念ながらボクの生徒たちとの交流はなかった。しかし、体験ツアーの間、ボクの生徒のことをツアー参加者にしっかり宣伝しておいた。しばらくして参加者の一人の女子中学生から手紙が届いた。モンゴル族の生徒と文通がしたいとのこと、これは願ってもないチャンス。

さっそく授業中、生徒たちに話して、文通希望者を募った。条件は日本語で手紙を書くこと。これは日本語の勉強を始めて1年ちょっとの生徒たちにとってはかなりの負担である。

しかし、すぐに9名の生徒が、日本語で手紙を書いてボクに見せに来た。一通り見て、意味のわからない部分は添削し、書き直させたが文法的に少々おかしくても意味がわかる部分については、そのままにしておいた。多少間違えがあったほうが、ほのぼのとしていて「一生懸命書きました」という熱意が伝わってくる。

その日本の中学生に、9人分まとめて手紙を送った。「この中から、気に入った生徒を選んで文通してください。できたらその他の生徒の文通相手も探してあげてください。」といった内容のお願いも添えた。

考えてみればずうずうしい要求だったが、その子は自分で2人の生徒を引き受け、あとの7人分の文通相手も探してくれた。こうして文通作戦はスタートした。1回目は、ボクがまとめて送ったが、2回目からは各自で手紙を出すようにさせた。ほかにも日本の学生と文通がしたい、という生徒がたくさん出てきたが、これ以上彼女に負担はかけられないので、次の機会を待つように言った。

文通とは熱しやすく冷めやすいものだ。当時内モンゴルから日本に手紙が届くまで約2週間もかかっていた。往復約1か月。文通を始めた9人の生徒たちがどれだけ続けることができるか、見当もつかなかった。

ただ、たとえ1回でもこのような機会を与えてやることは、とても大切だと痛感した。彼らは日本語の辞書など持っていない。教科書も参考書もない。ボクがガリ版を切って配り続けたプリントの束だけを拠り所に、悪戦苦闘しながら手紙を書いて、ボクのところにやってくる。とても恥ずかしそうな顔をして。

しかし相手から返事が来たときは、一転して自慢げな顔になる。文通作戦を開始してから、こういう生徒の顔を見るのが楽しみになった。

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