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19,オルドスの春節

1992年1月17日から冬休みに入った。寮に住んでいた生徒たちは、終業式もせず、この日の朝、長距離バスに乗って何百キロも離れたそれぞれのふるさとへ帰っていった。

ボクも冬休みは、親しくなった先生や生徒のふるさとを訪ねて過ごそうと思っていた。オルドスに来て半年経ったが、ボクはここ東勝の町以外どこにも行っていなかった。せっかくモンゴル族中学に派遣されながら、彼らの本当の生活、牧民の生活については何も知らなかった。いつか見てみたいと常々思っていた。

しかし当時そういった地域はすべて未開放地区。外国人が未開放地区に行く場合、通行許可証を申請しなければならない。ということで町の公安局に許可証の申請に行ったが、冬は安全面においても健康面においても危険が大きいということで、許可してもらえなかった。友人の家を訪ねるというごく当たり前のこともできない中国の外国人管理にはあきれてしまうが、いまさら南方を旅する気にもなれず、結局その冬休みはずっと東勝で過ごすことになった。

中国で最大の祝日は春節(旧正月)である。その年は2月4日だった。大晦日は担当主任のうちで過ごした。

当初からボクの活動や生活をいろいろサポートしてくれていたのが、オルドス市の担当主任。週末になるとよく家に招いてくれた。小学生の娘さんがまたかわいくて日本に興味津々。彼女の誕生日に招かれたときに「トトロ」のぬいぐるみを贈ったのだが、タヌキのなりそこないみたいな風貌に複雑な表情を浮かべていた。一応喜んでくれたが。実は当時オルドスで売っていたぬいぐるみは偽物のミッキーマウスやかわいくない熊などしかなかった。ホンモノを感じてほしくて贈ったのだが・・・。アニメを見てもらったらもっと喜んでもらったかも・・・。

そんな主任一家としばらく餃子を食べながら中国語でいろいろ話した。

しかし夜の7時ごろから日本の「紅白歌合戦」のような番組が始まるとみんな夢中になってそれを見だした。歌だけでなく漫才や寸劇から少数民族の踊りまで多彩な構成になっているが、言葉がわからないボクにとって、その番組を見続けることがだんだん苦痛になってくる。早く番組が終わることを願った。しかしいつまで経っても終わる気配がない。よっぽどもう眠いから帰ると言い出しそうになったが、その夜はその人のうちに泊まることになっていた。日頃からお世話になっている人だし、ひたすら我慢していた。

その番組は結局12時まで続いた。そしてやっと話題がこっちのほうに戻ってきた。「日本で旧正月を祝うところは少なくなっている。元旦が日本では一番重要な祝日で夜は除夜の鐘を聞きながら静かに年が明けていく、」拙い中国語で説明すると「ここでは、うるさく年を迎えるんだ」と言いながら、中庭に出て爆竹を鳴らし始めた。

「パンパンパンッ」と乾いた音が耳をつんざく。近所でも同じように爆竹の音が聞こえてきた。その人のうちは高台にあったので、外に出てみると、爆竹とともに各家庭の庭から花火が打ちあがっていた。日本の花火大会のときのような大規模なものではないが、寒空に広がる住宅街の各家庭から打ちあがる、緑や赤の光はとても幻想的だった。その後部屋に戻り、ボクは深夜2時に寝たが、爆竹は一晩中鳴っていたようだ。

次の日、つまり春節初日は朝早く起きて、いったん部屋に戻り、今度は学校の親しい先生のうちに行って、彼らとともに、オルドスの春節を体験した。

とにかく慌ただしい。年長者の家から順番に親戚周り。1軒当たり30分ぐらいの割合で、底冷えのする中、自転車に乗って、小さな東勝の町をぐるぐる回る。

家に着くとまずモンゴル族の儀式である「嗅ぎ煙草入れの交換」をやる。各自が持っているガラスでできた「かぎ煙草入れ」を相手に渡す。渡された「かぎ煙草」の匂いを嗅ぐ。その香りをお互いに褒め称えながら相手に戻すという簡単な儀式。その意味を説明してもらったが、うまく聞き取れなかった。まあ、お互いに大切なものを相手に差し出すことによって、信頼関係を表すとともに、お互いの一年間の幸福を祈る、というものだと勝手に解釈した。

その後酒を酌み交わし近況を話しあうと、もう次の家へ。午前中だけで5軒も回った。ボクは前日あまり寝ていないのと、めずらしい日本人とあって、たくさん酒を勧められたせいで、午後はダウンしてしまい、同行できなかった。

しかし、その先生は、午後は6軒回ったと言っていた。「日本の正月はもっと静かにゆっくり過ごす」と言ったら、彼曰く「オルドスでは普段暇だから春節くらいは忙しく過ごすのだ。」そう言い張っていたが、さすがに疲れきっていた。

こうして何日か、昼間はお互いに訪問し合って、夜は盛大に宴会をやって、おいしい食べ物や酒とともに、慌ただしいオルドスの春節は終わる。本当はほかにモンゴル族固有の、儀式や習慣がもっとたくさんあるようだがここ東勝の町では、それは見られない。モンゴルの民族衣装を着ている人すら見かけなかった。実は春節初日、ボクは張り切って友人からモンゴル衣装を借りて、親戚周りに同行したが、ほかに誰一人として、モンゴル衣装を着ている人はなく、とても恥ずかしい思いをしたのであった。

ただ独特のオルドス民謡を歌いながらの楽しい宴会は、紛れもなくオルドスならではのもの。このオルドス民謡のメロディーは日本人にとってとても親しみやすく、2、3回聞けばすぐに口ずさむことができる。また、こちらの人は日本の民謡歌手のように、小節を効かせながら、ハリのある高音を出して歌う。みんな歌が上手で自然と酒が進む。もちろんボクも歌う羽目になるのだが、そこは唯一の日本人、何を歌ってもどんなに下手に歌っても、もてはやされる。日本の歌では「浜辺の歌」や「四季の歌」そしてもちろん「北国の春」などが好評だった。

こういった宴会の後は社交ダンス。こちらの人なら老若男女、誰でも優雅に踊ることができた。ボクも学生から年配の婦人まで様々な女性にリードしてもらいながら、何とか相手の足を踏まない程度に社交ダンスができるようになった。

ほかにこれといった娯楽はないが、客を手厚くもてなす態度や心から楽しんでいる様子を見ると、ここオルドスの人たちのある種の豊かさを感じた。

春節の時の嗅ぎ煙草入れの交換の儀式


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