45,「塩を売って緑を買う男」になるまでの道のり(その2)
せっかく辞めたのだから失業保険をもらいながらしばらくのんびり。当時は起業して砂漠緑化をするのではなく、会社に就職してその会社を説得して社員の身分で自分のやりたいこと=「オルドスの砂漠緑化」に取り組んでいきたいと思っていた。
遊園地はだめだった。次は何にしようか。暇だったのでよく図書館に行って新聞を端から端まで読んでいた。当然求人欄も目を通す。ある日、これだと思った求人があった。教育関係の会社。「日本語学校新設に伴い日本語教師募集。」これだと思った。日本語学校を作り、そこにオルドスモンゴル族高校の卒業生を大量に送り込み。大学で環境や農業のことについて勉強してもらい。オルドスに帰す。人材や資金が調って来たらオルドスに「環境大学」を作り、砂漠緑化研究の世界的な一大拠点を作り、そこから一気にオルドス全土を緑化する・・・。壮大な妄想・・・。
面接に行ってすぐに採用。日本語学校設立は近い将来、梅田に開設する予定。今は日本語教師養成コースを開設していて、そこで働いていた専任教師が退職したのでその後任としての採用だった。
仕事は楽しかった。前の会社で社会人としてのイロハを叩き込まれていたし、教育分野なので大阪でも割とソフトな感じ。また、養成講座のカリキュラムやシラバスは前任者が整えてくれていたのでそれに沿って教えていけばいい。授業の準備は時間がかかったが、コース全体を任されていた。自由にやれたので気が楽だった。
半年経っていよいよ梅田校開校。僕は所長に抜擢されることになった。しかし念願の日本語学校ではなく2番目の日本語教師養成コースだった。ここは本気で日本語学校を設立する気がなさそうだ。仕事は楽しいし、楽だし、曲がりなりにも所長という肩書を手に入れた。しばらくはお世話になってもよさそうだったが、ここに長くいればいるほどオルドス砂漠緑化の夢は遠のいていきそうだ。そう悟った僕は壮大な「環境大学」の夢をあきらめて、次の「オルドスへの道」を探した。
ちょうどJICA中国事務所でのボランティア調整員を募集していたので、ダメ元で受けに行ったら受かった。ここで3年間、国際協力の業務をこなし、中国での交渉力を身につけ、3年後はプロジェクトを立ち上げ、JICAの力でオルドス砂漠緑化を実現しよう。またしても壮大な計画。
こうして2001年からはJICA(国際協力機構)のボランティア調整員として中国北京に派遣された。そう、青年海外協力隊時代に僕の活動を見に来てくれた人がいるが、それと同じように中国各地に散っている80人の協力隊員のサポートが仕事。職場の同僚の半分は日本人。後の半分は中国人だが日本語はぺらぺら。職場のすぐ近くの外国人用のマンションで何不自由なく暮らしていた。オルドスには僕が行って以来、隊員は派遣されていない。だから調整員になっても行く機会がない。
オルドスの教え子との交流はというと・・・。
帰国後、多くの教え子から手紙が来た。ほとんどの場合、「センセイ、こんにちは」と日本語で始まる。しかしその後はひたすら中国語、中にはモンゴル文字で書き綴る生徒もいた。当然こちらはチンプンカンプン。そして最後は日本語で「センセイ、さようなら」。それでも、とてもうれしかった。すぐに返事を書いた。しかし、ただでさえボクは根っからの筆不精。その上中国語を交えて返事を書くのは大変な労力だ。時が過ぎていく中で、教え子との文通は徐々に途絶えていった。
JICAでは国際協力の最前線で実務を担当、貴重な経験ができた。しかし、膨大な事務作業をこなしながら、要請開拓、隊員のサポートなど、多忙な日々が続き、いつしかあのオルドスでの熱い日々が遠い存在になっていた。ただの「いい思い出」になりつつあった。
北京に赴任して2年ほど経って、残りの任期が1年を切った頃、自分の進路についてもいろいろ考えるようになっていた。もちろんオルドスの砂漠緑化の夢はいつも頭の片隅にあったが、今の自分にできるのか、もうすぐ40になる自分が今からこんなリスクのある仕事ができるのか、何だか現実的ではないような気がしていた。それよりJICAの仕事も慣れてきたので、今後も調整員として途上国を渡り歩くのも悪くない・・・。あるいは中国に進出した大企業に駐在員として収まるか・・・。方向が定まらない。宙ぶらりんのまま残りの任期をこなしていた。
そんなある日、職場に電話がかかってきた。その日は休日で僕はもちろんスタッフのほとんどが不在だったのだが、電話を受けた中国語ができない同僚の話では何を話しているのか聞き取れなかったがとにかく「サカモトタケシ、サカモトタケシ」と何度も叫んでいた、ということだった。「誰だ?」数日後、もう一度電話があった。今度は僕がいたので回してくれた。「先生、こんにちは。スレンです。」なんとオルドスモンゴル族中学の教え子だった。そう文通相手にとっておきの写真を送ってふられた53組のリーダーであった。「僕は今、赤峰で広告の仕事をしています。」赤峰とは内モンゴル中部にある町である。「僕はもう結婚しました。先生は?」「・・・」「さびしいですねえ。早く見つけてくださいね。」面目丸つぶれである。しばらく拙い中国語で会話が続いた。「でも、なぜ僕が北京にいることがわかったの?」「実は高校のとき先生が紹介してくれた文通相手が教えてくれたんです。」実は彼にはもう一人文通相手がいた。その文通相手は今、福岡の高校で教鞭をとられている。最近はご無沙汰していて、年賀状だけのやり取りになっていた。しかし、スレンとその先生はもう10年近くも文通していることになる。そして、その先生を通して、懐かしい教え子と電話で再会できるなんて。実に不思議だ。
その数日後また電話がかかってきた。「覚えていますか。ノリブです。」「???」「オルドスのモンゴル族高校にいたノリブですよ、センセイ」すぐ顔が浮かんできた。大学の体育学科に入るといっていたあのノッポのノリブだった。「やあ、久しぶり。でもどうして僕が北京にいることがわかったの?」「実は2日前、フフホト(内モンゴル自治区の区都)に行ったんです。その時ある日本人と会って、話していたら先生の話になったんです。今、北京にいると聞いてびっくりしました。」こちらもびっくりした。彼が会った日本人とは僕がサポートしている隊員の一人だった。その時フフホトで日本語を教えていたのだ。しばらくたどたどしい中国語での会話が続いた。彼は大学を卒業し、オルドスモンゴル族高校に戻り、今、体育の教師をやっている。日本語の勉強はずっと続けてくれていて、今度、日本語能力試験の2級を受けると言っていた。公費留学試験をパスして日本に留学し、体育教育の博士課程を修了することが彼の夢だ。彼のほかに僕の教え子が3人もオルドスモンゴル族高校で教師をやっているそうだ。物理と歴史、残念ながら日本語ではない。今、モンゴル族高校では日本語はやっていないとのことだった。「今度、オルドスモンゴル族中学のホームページを作る予定です。先生のことも載せたいので是非、先生のプロフィールを送ってください。」彼はこう言うとメールアドレスを伝え、電話を切った。今、自分がお世話している隊員を通じて、昔の隊員時代の教え子と電話で再会を果たすなんて。本当に不思議だ。
その後しばらくして、内モンゴルのフフホトに出張に行ったときのことである。2日間の日程を終えて、空港で北京行きの飛行機を待っていた。飛行機は遅れていた。天候不良のため、まだフフホトにその飛行機は到着していない。待合室でボケっと待っていた。するとアナウンスが流れた。「やっと来たか」と思いきや、「北京行きの飛行機は約2時間後にフフホトに到着する予定です。」そのときすでに夜の9時。11時に飛行機がついて、客を降ろして、清掃して、搭乗、離陸は11時半くらい?家に帰るのは午前2時すぎか??。ため息をつきながらあたりを見渡すと、みやげ物コーナーがまだ開いていた。暇だから見に行った。ショウケースの下のほうにモンゴルの銀製品があった。懐かしくてしばらく見ていたら、ショウケースの反対側から「センセイ。」と日本語。「私のこと覚えてますか?」顔を上げると、かわいらしい従業員が僕のほうを見ている。しばらく見つめ合う。「あっ、思い出した。ウドンガリラだ。」よく覚えている。ちょっとおとなしかったが、とにかく日本語を一生懸命勉強してくれていた女子生徒。テストの点数もいつもトップクラスだった。高校時代はまん丸顔だったが、少し顔立ちが引き締まった感じになっていたので、俄かには思い出せなかった。「先生、あちらでお茶でも飲みませんか。」と仕事をほかの人に頼んで、コーヒーショップに連れて行ってくれた。それから搭乗するまでの2時間余り、本当にお互いよくしゃべった。残念ながら中国語だったが・・・。授業のときのこと、早大生と交流したこと、砂漠で木を植えたこと、昔の思い出が溢れんばかりに次から次へと湧いてきた。しゃべりたいことがたくさんあった。もう一生懸命しゃべった。しゃべりながら考えた。オルドスでの3年間、彼女とこうやって面と向かってしゃべったことがあっただろうか。授業では僕の質問に懸命に答えてくれた。日本人との交流のときはよく笑っていた。しかし、彼女と授業以外の時間にこうやって話をしたことはない。雑談をしたことすらない。3年間という長い時間で一度もないのだ。それが、今、こうやってお互いオルドス時代の話に花を咲かせている。お互いの思い出を共有している。本当に不思議でならなかった。「今はこの空港で働いています。今でも、日本語を少し使っているんですよ。夏になったら、日本人がたくさん来るから。センセイ、日本語を教えてくれて本当にありがとうございました。」「僕がもっと上手に教えていたら、通訳になっていたかもしれないのに。」いや、本当に申し訳ない。別れ際、彼女が言った。「来年になったら結婚するから、オルドスに帰るんです。先生、また、オルドスに遊びに来てください。」先生は?と聞かれなくてほっとした。
その後、飛行機に乗って北京へ。そして深夜、2時すぎにやっと自宅に戻った。しばらくビールを飲みながら、物思いに耽っていた。「それにしても不思議だなあ。」ふと、あることを思い出して、夢中になって押入れを捜索した。ある物を探していた。小一時間探して、やっと見つけ出した。僕の宝物、オルドス最後の夜に生徒からもらった青いプレート。「お互いに思い会うように」そうか、お互いに思って、また会うんだ。よーし、今度、思い切ってオルドスに行ってみよう!・・・。(つづく)
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