17,ボランティアって?
活動を始めて半年間は言葉に不自由し、生活の不便さに閉口し、食事も口に合わず、寒さと乾燥のためよく風邪を引いていた。ただそのようなことは前から予想していたことだし、慣れてくれば、そう辛くは感じないものだ。
その時一番辛かったのは、前に触れた「プライベートがない」こと、そして周りの生徒や先生方が「ボクが何のためにオルドスに来たのか、まったく理解してくれない」ことだ。
「ボランティア」ということを理解してもらおうにも、当時中国語でそれにふさわしい言葉がなかった。辞書で「ボランティア」を引いても「義務労働」という訳しかない。たぶん「金銭を受け取らない労働」を中国の実情に合わせたらこの訳になったのだろうが、これはどう考えても違う。ちなみに今は「志願者」という言葉が浸透している。
当時のオルドスの人からすると、経済が発展している日本からわざわざ中国の僻地の内モンゴルの更に砂漠化が進んだオルドスに自ら望んで仕事に来るはずがない。あるいは「あの日本人」には何かいわくがあるに違いない、と考えるほうが自然なのかもしれません。
いろんな噂があったようです。
「日本にも下放政策があってオルドスに連れ来られたんじゃないか」或いは「単にモンゴル語を勉強しに来た日本人」或いは「日本で何かしでかし、日本から逃げてきたんじゃないか」など。とにかく「かわいそうな日本の若者」と見られていた。
*下放政策とは、文化大革命期に、毛沢東の指導によって都市部の青年層を地方の農村に送り込み肉体労働をさせ思想改造をしながら、社会主義国家建設に協力させることを目的とした思想政策。
1991年12月、オルドスで初めて誕生日を迎えた。授業のとき、生徒たちがボクに誕生日のプレゼントをくれると言っていた。部屋で待っていたがなかなか来ない。夜の自習時間の前にも来なかった。きっと自習が終わってから来るんだろうと思い待っていた。一体何をくれるのだろう。すぐに思い浮かべるのはやはりケーキ。しかしこちらのケーキはバタークリームたっぷりでスポンジは硬くとてもうまいとはいえない代物。それともオルドス特産の銀製品?もしかしたらカシミアのセーターかも。いやそれは生徒にとって負担が大きすぎる。とにかく何でもよかった。生徒からプレゼントをもらうのはいいもだ。いろいろ想像しながら自習の時間が終わるのを待った。
自習終了のベルが鳴った。そしてドアをノックする音。ドアを開けると代表の生徒3人が立っていた。「センセイ、これは私たちからの感謝の気持ちです。」と紙包みをボクに渡すと、「センセイ、さようなら。」と恥ずかしそうに去っていった。
なんだかあっけないプレゼント贈呈の場面。一人で紙包みを開けてみると、おもちゃのお札のような紙切れが束になって、たくさん出てきた。そのうちの一枚をとってよく見ると「内蒙古自治区地方糧票5市斤」と書いてあった。生徒が持ってきたのはケーキや花束ではなく、「糧票」とよばれる食糧配給券の束だった。しかも、いっしょにもらった紙にはご丁寧に誰が何斤分くれたか、刻銘に書いてあった。
全部でざっと500斤。あとで先生に聞いてみたら、一人では2年かかっても使いきれない量だそうだ。生徒一人一人が自分たちの使う分を少しずつ集めて、プレゼントとしてボクにくれたかと思うと、うれしいやら情けないやらで目から涙が零れ落ちた。
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