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若者よ、その気持ちは残念ながら理解されない

中ニ病という言葉がある。
たぶんこの言葉ができる前から、思春期特有のネガティブ感情みたいなものは人間共通のものとしてある。そうに違いない。

そういった感情を世の中や周りの同級生に理解されないという体験も、ある程度の人は多かれ少なかれ経験していると思う。

だが年をとると分かるがこういう感情は多くの場合、世間からは理解されない。

なぜなら、この中ニ病的感情は「性器」のようなものだからだ。

どういうことかというと、中ニ病的感情は自分からすると当たり前のものだが他人からするとグロテスクで目に入れたくないものということだ。更には赤ん坊が露出する分には笑い話だが大人がこれをやると笑い話ではすまない。

思春期になると少年少女は「自分の本当の気持ち」の取り扱いがそれ以前と変わってしまうことに戸惑う。世渡り上手は早期に迎合し「建前」という感覚を駆使していくが、プライドの高い私の様な人間はそうはいかない。「ついこの前まで本音で生きてきたのに、なぜ建前だらけの汚い世界に迎合しなければいけないのか?」とこうなる。

そして拗らせ、心を病む。

だがそのうち拗らせ野郎も多くの場合、社会に迎合し自らの恥部を隠して生きていくようになる。これは「成長」によるものなのか、「時間経過」によるものなのかは今だに分からない。

やがては自分の中ニ病的感情も忘れ、若者が中ニ発言をしようものなら共感生羞恥心から袋叩きにしたくなる。

世の中の大人は自分が中学二年生だったことは忘れているので中ニ病患者の気持ちは分からない。だから多くの若者が苦しむ。

だけど中ニ病的感情はあくまでも「恥部」であって、性器と同じように当たり前に存在するものというのも事実である。隠すことはできてもなくせるものではない。世の中への疑問や反抗心は大人になったって当然持っていて然るべきもののはずだ。

世の中にはストリッパーやアキラ100%の様な性器を利用して商売をしている人が少なからず存在する。

中ニ病もこれと一緒で、様は「脱ぐタイミング」を工夫すればプラスに働く。世の中の芸術のほとんどは「露出するタイミングが巧妙に計算された中ニ病」といっても過言ではない。太宰治とその他の中ニ病患者の違いはやはり自己プロデュース能力にある。

ただ我々一般人が太宰治の様に中ニ全開で生きていくのは正直ハードルが高いので、適度に迎合し、適度にこういうnoteみたいな場で発散するのが妥当だろう。

ともかく頑張ってくれ!若者!

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