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千年女優

見た。小さな映画館で見た。
今敏さんの映画は色々見てきたので、これもリバイバル上映をいいきっかけとして公開初日に劇場まで赴いたわけだが、いやはやその価値は十分にあったと思う。
そもそもまず映像が本当に綺麗だ。最近のアニメによく見られる超絶作画!みたいな綺麗さとはまた違った方向に綺麗だ。
この映画、映画撮影のシーンが多く出てくるので迫力あるシーンもそれはそれは見ごたえがあって良いのだが、また一方で静かなシーン、例えば雪原だったり月面だったりといった動きの少ない落ち着いたシーンの綺麗さが自分は本当に好きだ。

一番それを感じたのは、千代子さん初登場時だった。
かつての大人気女優が長い時間を経た末に見せる姿。彼女のファンである社長が、今のお姿もさぞ美しいことだろうと散々上げていたハードルを軽々超えていったあのシーンだ。
映画をすべて見終えたあとに考えると、現在の彼女の姿をここまで美しく描くことは話の説得力の低下に繋がってしまうような気がするのだが、しかし千代子さんを描こうとすればもう必然とあの上品さは醸し出てしまうものなのかもしれない。
アニメーション映画の登場人物の一人とは思えないくらいに存在感がすごかった。

映画の全体的な流れとしては、一人の女優の女優人生をインタビュー形式で振り返りつつ、回想シーンと現代のインタビューシーンが織り交ぜになったまま、虚構と現実の境目がどんどん曖昧になっていくような展開が続いていく。
こういう描写はやっぱり流石だなと思う。次元の境界線を曖昧にしていく手法がやっぱり上手だし、何より良かったのはこの映画のそれがかなり平和的に用いられていたことだ。

どこからが現実で虚構なのかがわからない、ですぐに思いつくものに自分も去年に見た同監督のPERFECT BLUEが挙げられると思うのだが、あれと比較すればビックリするほど千年女優は平和だ。
もちろんその曖昧さを不安さに繋げてくるドキドキ感も非常に見ていてハラハラしてよいのだが、自分はとことん心の弱い人間なので、映画撮影の話を聞いていたはずが、いつの間にかそんな映画の世界に捉われてしまっていて……と言ったような、全体的に感じるコミカルさが本当に好きだ。撮影助手の男の人が本当に良かったな、彼のおかげで曖昧な境界線を楽しみきっていいんだと思えたのがありがたい。

あと感じたのは完全さと不完全さの肯定だろうか。
女優という職業は常に完全を見せることが求められる仕事だろう。長い時間をかけて撮影した映像から特に出来のいいものを選び出し、完全に限りなく近しいものをスクリーンやテレビの画面に映し出すのが女優であるのなら、そんな完全さをひたすら追い求める姿勢というのは劇中で度々語られる価値観とは相反している気がする。
完全な丸である満月よりも、それに1日だけ足りていない14日の月の方が好きだ、というセリフ。これは不完全さの肯定だろう。足りない部分に、欠けた部分に価値を見出してそんな不完全さを愛する鍵の彼。
それだけではない。劇中に登場する老婆が若かりし頃の千代子さんにかけた言葉だったり、隠居の理由があの人に年老いた自分を見られるのが怖かったから、等々、年齢を重ねることに対して後ろ向きに捉えるている様子が度々見られたが、これもまた不完全さの肯定に繋げられるだろう。
年齢を重ねることを後ろ向きに捉えると言うことは、逆説的に若い頃のまだ完成されていない少女の青臭さや未熟さを、そんな不完全さを肯定することと同義だと思う。

作品で語られるのは不完全さの肯定だが、しかし作品のメインに据えた女優という職業は、完全さの肯定の象徴みたいな存在だろう。ではどちらなのか。どちらがこの映画の出した答えなのか。ずっとそれを気にしながら映画を見ていたが、すべてを見終え、その回答は示されなかったな、と思った。
そもそも自分の設問から間違っていたのだ。この映画はどちらかを肯定する映画ではない。むしろ逆だ。どちらも肯定していなかった。
完全不完全の判定は、結果に対して下されるものだろう。そうではなかった、この映画で描かれているのは過程の肯定だった。
過程、途中。まだ結果が出ていないそれは、不完全であると同時に、今後空白が埋められることでそれは完全になり得るかもしれない可能性を秘めているとも言える。
思えば、あと一日で満月になる夜も、人が日々を生きる中で年に一つずつ歳を重ねることも、すべては過程の話でしかないのだ。
完全でも不完全でもないそんな可能性に満ち溢れた”過程”こそがこの映画で最も肯定されているのではないか。そう思って例のあのセリフについて考えてみると、非常に面白くなってくる。

カリオストロの銭形警部しかり、この映画はこのセリフたった一言のために作られているのではないかと思ってしまうほど、それ一つで映画の印象を全く変えてしまったり、映画全体の評価を一気に上げてしまうような力を持ったセリフが存在していると自分は思う。
そんなセリフがこの映画にはあった。最後の一言だ。

「だって私、あの人を追いかけてる私が好きなんだもの」

これはもう素晴らしく、過程そのものへ価値を見出している証左に他ならないだろう。
彼に会えるかどうか、彼が生きているかどうか、そんな確定してしまった結果ではなく、かつてほんの少し時を同じくしただけの顔も曖昧な彼を、たった一つの手がかりである鍵だけをたよりに道路も線路も海も超えて追い求める私というドラマチックで狂気的なそんな過程を愛し、自身の女優人生を、いやなんなら人生そのものすらも捧げてしまった彼女。
結果を得るための手段だったはずの過程の魅力に憑りつかれて、すべてを懸けてしまった彼女の姿は異常にも見えるが、しかしそれは寧ろ現実的な描写でもあるのではないかとも思うのだ。

だって、過去にちょっと惚れただけのよくわからない男を人生をかけて追うなんて、あまりにドラマチックすぎるではないか。
そんな行き過ぎた盲目性は虚構の世界にしか登場し得ないだろと思うほど、現実離れしているのだ。
だからこそ、彼女が真に愛していたのが鍵の彼ではなく彼を追う彼女自身である、という説明には非常に納得がいく。
自分は恋する乙女の一心不乱さよりも、名女優のナルシズムの方が信頼できると思っている。
現実離れした他者愛よりも、現実的な自己愛の方が説得力がある。そう考えていた自分からしてみれば、あの最後の一言もまた現実と虚構の境界線の曖昧さの演出に繋がっていたと思うのだ。

現実と虚構の曖昧さを最後の最後まで忘れずに、ラストのセリフ一言までもこだわってそれを見せてくれるのはやっぱり流石だ。
そういう不確かさを持って、一人の女性の人生を87分の上映時間で描き切る、いやはや本当にすごい映画だったと思う。

いいもん見たな。



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