おじいちゃんの戦争体験

「ちいちゃんのかげおくり」を長男が小3の時に国語で勉強して、「焼夷弾ってどんなの?」と聞いてきたことから、思いがけず、私の父の体験談を聞くことができました。今日、終戦記念日で思い出したので、書きとめておいたことを再録します。

おじいちゃんの家は、江戸時代から農家をやっていたことがわかっています。第二次世界大戦のときも、農家でした。
おじいちゃんのお父さんは、戦争の終わりのころは、戦場にいました。だから、おじいちゃんの家は、年寄りと、おじいちゃんのおかあさんと、おじいちゃんの兄妹で、農家をやっていました。
そのころ村は、田んぼと畑ばかりでした。隣の市には、軍需工場がありました。
昭和20年に、隣の市を空襲が襲い掛かりました。軍需工場を狙ったのです。その焼夷弾が、村にも、たくさん落ちてきました。
その時、おじいちゃんは13歳、おじいちゃんのお兄さんは16歳でした。
空襲警報が鳴ると、おじいちゃんや、年寄りや妹たちや近所の人たちは、川の岸の、線路の橋の下に避難しました。そこの周りは建物がほとんどなかったので、まさかの時はそこに行こうと決めていたのです。
照明弾で明るくなり、焼夷弾が落ちてきます。焼夷弾は、火をつけるための爆弾です。最初はパラシュートがついているのか、ゆっくりふわふわ落ちてきます。その方向を見て、逃げるのです。パラシュートが外れるともうよけ切れません。一度に沢山発射するのか、それとも空中で分かれるのか、「20発ぐらいいっぺんに落ちてくるようだった」とおじいちゃんは言います。雨のような「ザー」という音がしたそうです。
焼夷弾にも種類があります。
「油脂焼夷弾」は、落ちるとよく燃える油が出て、それに火がつくのです。燃えるものが近くにあると、あっという間に燃え広がります。
「黄燐焼夷弾」は、花火のように爆発します。家ぐらいはあっという間に吹っ飛んで丸焼けになります。
おじいちゃんのお兄さんは、今で言う高校一年生ですが、戦争中は、大人の男の人は兵隊になっていたので、大人の男として扱われていました。おじいちゃんのお兄さんは、村の自警団で消防隊員でした。すぐにあちこちの火事を消しに行きました。
油脂焼夷弾が畑に落ちたら、スコップで、畑の土をかけます。油脂焼夷弾は水では消えない、と、聞いていたからです。
けれど、もう燃えるものに火が付いているときは、消防ポンプやバケツで何度も何度も水をぶっかけたら、消すことができたそうです。
村のあっちもこっちも火事でした。
とうとう、村の鎮守の神様の本殿に黄燐焼夷弾が落ちました。あっという間に火が広がり、御神輿の蔵も燃えました。
御神輿は、村の男の子たちの誇りです。それが目の前で燃えるのを見て、リーダーが「逃げよう」と決めました。それでおじいちゃんのお兄ちゃんも、消防団の多くの人が助かりました。おじいちゃんのお兄さんは、「神様が代わりに燃えてくれたんだな。」と、後から思ったそうです。
気の毒だったのは、村はずれの若奥さんでした。小さい子供が三人いるので、焼夷弾から逃げ切れなかったのです。油脂焼夷弾の直撃を受けました。即死でした。赤ちゃんは投げ出されて助かりました。一番上の子は六歳で、その前後の記憶がないそうです。ただ、お母さんが燃えているシーンが写真か映画かのように目に焼きついているそうです。

そして、戦争が終わりました。

おじいちゃんのお父さんは、戦死の知らせもなかったので、兵隊さんを乗せた船が港につくたびに、おじいちゃんのおかあさんは迎えに行きました。でも、お父さんは帰ってきません。12月に、同じ隊だったという人が尋ねてきて、遺品を届けてくれました。眼鏡でした。役場の公報で「戦病死」として通知がありました。
それでも、おじいちゃんのおかあさんは、最後の船が着くまで、港に通い続けました。
「“岸壁の母”じゃなくて“岸壁の妻”だな」と、おじいちゃんは言います。
そんな人が、日本中にたくさんいたのです。最後の船から降りてこないのを確かめて「ああ、けえってこれねえんだなぁと思っただよう。」と、おじいちゃんのおかあさん、ひいおばあちゃんは言いました。
「わたしゃ、死んだだんなの分まで生きるんだから、百歳は越えねばなんねべよう。まだまだ、寝たきりになんてなれねえだよ。」と、曲がった腰で、カートを押して、毎日村を散歩します。おじいちゃんは「百十ぐれえまでは生きるんじゃないか?」と笑います。

なぜ、今まで話さなかったのか、たずねると
「みんなが同じような体験をしているんだから、特別なことでもなんでもねえ。」という返事でした。
でも、昭和7年生まれのおじいちゃんと昭和11年生まれのおばあちゃんでは、記憶の正確さも、焼夷弾の知識も、まるで違います。そして、経験者の話には、経験者にしかわからないことが沢山あります。

戦争を体験したおじいちゃん、おばあちゃんがまだご存命の方は、どうか、ゆっくり話を聞いてみてください。

※この話は「空襲の時、父は十三歳だった」で「あやしうこそブログるほしけれ」に収録されているものを手直ししています。

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