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船上の人

 豪華客船の旅は贅沢かもしれない。だが、今回は一生心に残る思い出にしたい。私は彼女と旅行するのに、船の旅を選んだ。
 調べればかなりお得なプランもある。長旅の一部だけ、安い船室に乗るのである。往路か復路のどちらかを船にする。宿泊・食事込と考えれば、ちょっと贅沢、ぐらいである。
 船の旅は、何もかも初めてで新鮮だった。客船では、どんな生活リズムの客にもあうように、早朝から深夜まで食事が用意されている。それがどれも旨い。
「食べきれない、でも、美味しいー」夕食後、甲板で彼女が言った。私が何か答えようとしたとき、横から
「いいわね、若い人は」と声がした。
 私が見ると、上品な初老の婦人だ。

「船は、全部味わおうとしちゃだめ。自分に合う時間を切り取るようにしなきゃ」 
と、にこにこ笑っている。船旅というものは、狭い空間に閉じ込められるため、知らない間柄でも仲良くするのがマナーらしいとわかってきた所だったので、私は婦人に尋ねかけた。
「どちらまでですか?私達は明日までです」
「私はねぇ、ずっと乗ってるのよ」と、微笑みながら婦人が答える。
「夫が亡くなったら、一人きりでいると寂しいでしょう?船では、皆が家族のようでしょう?だから、降りないことにしたの。この船でずっと旅をするつもり」
 私は(すごい金持ちなんだな、旦那の遺産かな)と思ったが、言うのは失礼なので言葉を捜していると、彼女がぶるっと身震いした。婦人が、
 「ああ、冷えてしまったわね、それじゃ」と言うので、私は軽く会釈して彼女と船室に戻った。
「誰と…何を話していたの」と、彼女。
「?そばにいたのに」と、私が言うと、
「聞こえなかったの」と、彼女が答えた。
 そういえば、甲板には風があった。声が流れてしまったのか。
「あのおばあさんは、旦那さんに死に別れてからずっとこの船に乗って旅をしているらしいよ。」
「ふぅん…」
 窓の外は海。陸の灯りも見えない闇。心地よいうねりに身をゆだねる。今だけはこの世に二人きり。

「…結婚しようか…」

 陸に戻ると、日常は瞬く間に過ぎる。船の上の約束どおり、それから二人は月日を重ねた。
 ふと、私は思い出した。
「そういえば、あのおばあさん、まだあの船で旅をしているのかなぁ?」
 すると、妻がためらいがちに言う。
「あの時、私はね…」
「ん?」
「怖くなかったから、言わなかったんだけど…
   私には、そのおばあさん、見えなかったの…」

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