お母さんががんばることから降りたら
こんにちは(^o^) ばななです。
仕事柄、たくさんのお母さんと接していますが、
お子さんを見ていると、お母さんの「がんばり度」がわかります。
がんばることは素敵だけれど、苦しくなるのはねぇ。
今日はそんなエピソードを。
あるクラスに一人の女の子がいました。
授業中もぼんやりしていて自分の長い髪の毛をずっといじっています。
つけられたあだ名が「貞子」
ゲームが大好きで一晩中やっているらしく、
得意げに、自慢げにゲームの話をする上に、弁が立つので、
ゲームのできない子をからかったり馬鹿にしたりするようです。
彼女とやった二度目の体育のことでした。
サッカーボールをドリブルしながらするリレーの最中、突然、彼女が座り込みました。
何が起こったのか最初は分かりませんでした。
ようやく本人の口から
「これが上手く出来そうにも無いからやめた」
という言葉が出てきたときには、授業が終わっていました。
「あいつはいつもそうなんだよ」
そういう子どもたちを教室に返して、その子と話をしました。
ぼくは、先生になってから気づいたんですが、子どもが何を伝えたいのか気づくことができるようです。
例えば、教室に入ってきたときに「あっ、この子なんかあったな」とか「母親に叱られてきたな」って分かるんです。
ですから子どもに「今、こう感じているの?」って聞くとえっ、とびっくりされます。
『みんなの通訳だ』って言われます。
わかりすぎて、ついつい授業をやめてしまうんですけれどね。
随分長い間、この子は
「完璧にやる」「うまくやる」
という呪いにかけられているようです。
「うまくやらなくっちゃ、と苦しかったんだね」と誰にいうでもなく言いました。
うまくやると、お母さんに承認にしてもらえるようです。
完全に頑張り疲れで、「承認してもらえないなら、やらない」と短絡的になっているようです。
「今までみんなに馬鹿にされたんだね」
ぼくがそう言うと、こくっと頷きました。
「うまくやろうと思って頑張ったんだね」またうなずきました。
「これからどうするの?」
「もう、体育、やめます」
しばらく、この問答が繰り返されました。
「これからどうする?」
「……」
何回目かの時に言いよどみました。
体育をやめる、っていうのが本心じゃないのです。
「本当はどうしたいの?」
質問を切り返しました。
「本当はどうしたいの?」
やがて泣き出しました。
涙をぽろぽろ流しながら……。
「……、やりたい」一言だけつぶやきました。
「じゃあ、あなたが一生懸命やっていることをバカにする子がいたらぼくに言ってください。決して許さないから」
彼女は頷きました。
それ以来、今に至るまで、体育をとっても楽しそうにやっています。
不思議なもので、自分がやる、って決めると、ミスをしても周りから「○○らしい」ってとがめられないんですね。
わたしたちは、ただ「体験したい」だけなのに、「上手くやること」「規準を満たしながらやること」というとらわれがあるから苦しいのです。
それをばななの辞書では「がんばり」と言います。
楽しくって仕方の無いこと、気づいたらやっていたことを「どりょくしている」とは言わないですものね。
わたしたちの中にある「本当は?」という問いかけを無視していくと、自分が嫌いになっていきます。
そして、そういう子どものお母さんは頑張り屋さんです。
ちゃんと子育てを、ちゃんと仕事を。
そのお母さんが大好きで、その背中を見ているから
「わたしもちゃんとしなきゃ」って思うのです。
しばらくたって、参観日に来たおかあさんにこのことを話しました。
視線を感じたので、そちらを向くと、お母さんを心配そうに見つめているその子がいました。
手招きすると、おかあさんの側にピッタリかけよりました。
そうやっておかあさんを守っているんですね。
「頑張りすぎてました。ちょっと考えてみます」
お母さんが頑張ることから降りると、子どもは嘘みたいに無駄な頑張りをやめます。
ぼくは、このように、子どもが劇的に変わる瞬間をぼくは何度も見てきました。
色々な状況がありますが、共通することがあります。
それは大切な人から
「あなたらしくっていい」
って承認されている、っていうことです。
ただ「お母さん」だって「それでいい」って言えない日もあります。
むしろくたくたに疲れて「言って欲しい」と思っている方だっているでしょう。
そんなときは
ぼくらが代わりに言いますよ!
それでいい(^o^)
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