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リレー日記(2024年1月22日〜28日)文・nszw

バナナ倶楽部のメンバー4人が、1週間ずつ交代で日記を投稿します。今週の担当はnszwです。

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 ところで、僕も所属するバナナ倶楽部という団体において、メンバーが週替わりで日記を書いてnoteにアップするという活動がスタートし、今週が僕の担当ということで今日から日曜日までの日記を書いていかなけらばならないのだが、僕はそもそも毎日日記を書いているので、ほんとはそれをそのままアップしてしまうのが早い。しかしここでなんらかのひと手間を加えたいという妙な目立ちたがり精神が働いてしまい、通常の日記とは別にnoteにアップするための文章を用意しようと思っていま書いているのがこの文章である。
 今回アップするのはあくまで日記である必要があり、そうなると僕はこの文章をただ闇雲に書くのではなく、日記として──すなわちその日一日のなかであったことや思ったことを書くものとして──書いていく必要がある。しかし先述のとおり僕にはそもそも毎日書いている日記があるので、〝その日一日のなかであったことや思ったこと〟というのはおそらくそちらに書かれるだろう。ではこちらの日記にはなにを書けばいいのか。……と問いかける形式にしてみたがこれについては書きながら既に答えを持ち合わせている。ようは、毎日思ってはいるが日記に書くほどではないとしてこれまで切り捨ててきていたことを書けばいい。そしてその内容についても既に思い浮かんでいるものがある。僕が日々粉骨砕身の姿勢で取り組んでいる、湯船のお湯張りだ。
 なにを持っていいお湯張りと見なすかということについては、端的に気持ちよく浸かることのできるお湯を張れたかどうかという一点に尽きる。つまりは肩まで湯船に浸かったときに「エァー」みたいな変な声が出るかどうか。変な声が出たらいいお湯張りができたという判断になる。そんなことをいうとなかなか感覚的な話のように聞こえるが、「エァー」を出すために必要な要素を挙げてみると、つまりはお湯の量(少なすぎてもだめだし、多いと多いで湯船からあふれ出ていくのがストレスになるのと、単にもったいない)と温度(いわずもがな)である。お湯の量と温度、それぞれを十点満点で自己採点し、その点数になった理由を分析してみることで、毎日のお湯張りをよりよいものにしていけるのではないか。それに加えて、ふだん見過ごされがちなお湯張りという作業をも日記という形式のなかで文章化してみることで、日常への理解がより深まるのではないか。
 そういうわけで、さっそく今日のお湯張りを自己採点してみよう。量:九点。肩まで浸かってもほぼあふれることのない、ちょうどいい量。温度:一点。熱すぎた。同居人は足を火傷したとうったえていた。

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 さて、今日もお湯張りの話をしなければならない。
 そもそもどうして僕が身を粉にしてお湯張りにいそしむ必要があるのかという話だが、給湯器で温度設定をしてピッとボタンを押せば適切な量と温度のお湯が張れるというのが常識の現代において、僕たちの家には給湯器がついておらず、お湯と水それぞれの蛇口をバランスよく回すことでお湯を張らなければならない。前に住んでいた築五十数年の家には給湯器がついていたのに築二十数年のいまの家にはついておらず、おそらく給湯器が標準になった頃でもなく、古い物件としてリノベーションされるほどでもない狭間の時代に建てられた物件であるために、僕が毎晩二つの蛇口を実に繊細なバランスで回すことを強いられているというわけだ。加えて、蛇口というものは開けたら閉める必要があるため、頃合いを見てお湯を止めなければお湯は湯船の外にあふれていってしまう。ようするにお湯の温度と量がうまくいくかどうかはお湯張り担当者にかかっているわけで、これを重圧ととるか、創意工夫のしがいがあるととるかは本人次第である。僕はいまのところ後者寄りです。
 というわけで、今日のお湯張りについても自己採点してみよう。量:限りなく十点に近い。同居人からも「一見少なめのように見えるが、浸かってみるとちょうどいい量だった」というお褒めの言葉があった。温度:個人的には八点くらいあげてもいい適温。温度については同居人からのコメントは特になかった。

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 今日は頭が痛いため手短にいこう。
 僕の家のお湯張りが二つの蛇口の開け閉めによって行われるというのは既に書いたとおりだが、そうなると蛇口のひねり具合というものが極めて重要になる。ふつうに考えれば毎日同じ具合でひねることで同じ温度と量のお湯が沸かせそうなもので、そのひねり具合をたとえば「反時計回りに二七〇度回転させる」みたいなレベルまで定量化するのは現実的でないにしても、「これくらいひねった」という指先の感覚を身体に染み込ませて来る日も来る日もそれを再現すれば、まるで僕自身が自動給湯器になるかのごとく、理想的な温度と量のお湯が毎日張られるのではないかと、僕もこの家に引っ越してきた当初は思っていた。
 しかし現実はそう単純なものではない。特にお湯のほうの蛇口において、季節による出力の差が激しいことがわかったのだ。夏には三〇度もひねれば熱湯が噴出するのにたいして、冬にはおよそ三六〇度ひねらないとしかるべき量のお湯が出てこない。この蛇口の上流がどこにどんなふうに繋がっているのか正確なところはわからず、あくまで想像に過ぎないが、長くうねった水道管は実は家の外にまで繋がっており、夏にはすべてを焼き尽くすような太陽光によって熱され、冬には凍てつく冷気によって極限まで冷やされるために、夏と冬の熱湯の出力に大きな差が生まれているのだとしか思えない。しかし原因はどうあれ、その暴れ馬のようなお湯の蛇口をうまく制さないことには理想的なお湯張りはできない。そうなるとけっきょく蛇口のひねり具合には一定の正解なんてものはなく、その日の外気温や気候に応じてひねり方を変え、かつ出てきたお湯を実際に手で確かめながら、「ここだ」と思う角度で止めるほかない。それはほとんど職人仕事と呼ばれるようなものに近く、僕はこの道四十年の熟練職人のごとく顔をしかめながら、今日も二つの蛇口をひねり、出てきたお湯を手で確かめてうなずくのだ。
 今日のお湯。量:見た目には昨日とほぼ同じ。すなわち十点に近い。温度:こちらも昨日と近い浸かり心地。八点。ほぼ昨日の再現ができた。しかしそれだけでは成長はない。職人として停滞している。

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 今日のお湯張りもよかった。量:昨日や一昨日とほぼ同じ。温度:昨日よりほんのわずかに低い、しかし長風呂しないのであれば身体も冷めることのない、よい温度。お湯張りについての文章を書いているせいか感覚が研ぎ澄まされて、ちょうどいいくらいの量と温度を三日連続で叩きだしており、採点をする気にもならなくなっている。しかしそうなると肝心の文章としては書くことがあまりなくなってしまうため、ここらへんで一度、お湯張りへの感覚を再び雑なものにする必要があるかもしれない。もしかするとお湯張りを量と温度で評価するといういまの考え方自体を解体して、「エァー」という声が出るかどうかという原初の評価軸まで立ち戻ったほうがいいのかもしれない。そう、「エァー」である。たしかに今日や昨日や一昨日のお湯張りは完璧に近かったかもしれない。でもそれで僕や同居人が「エァー」を発せられていただろうか。否、である。完璧なお湯が気持ちのいいお湯とは限らないのだ。かくして僕のお湯張りは一からの再出発となった。

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 お湯張りについての日記を書くようになってから、日常においてこれまで日記に書いてこなかったようなこと──〝できごと〟と呼ぶほどのものではないが、明確にその日あったこととして記憶していること──にたいする意識が高まり、知覚過敏になって今週を過ごしている。たとえば右奥歯について、というふうに書くと「知覚過敏」という言葉を使ったタイミングで奇しくも歯の話になってしまうが、べつに僕は寒さで歯が痛むんですみたいな話をしようとしているわけではない。というか書こうとしているのは歯そのもののことではなく、口のなかの右奥にあるブラックホールのごとき吸引力を持った謎の空間のことだ。これにはもうずいぶん長いこと悩まされている。食事のときに歯と歯の間にものが挟まるというのは一般的によくあることだと思うが、僕の場合わりと歯が大きく、したがって歯と歯の隙間が狭く、小学生の頃にはその歯並びのよさに加えてきれいに歯磨きができていたこともあって歯の学校代表の最終候補まで残ったほどなので、一度ものが挟まるとなかなか取れない。しかしそれが前方の歯だったらまだいい。僕の場合、食事のたびに必ずといっていいほど同じ右奥の空間──おそらく最後列の歯と歯茎の間──にものが詰まる。口内で咀嚼した食べ物は大半が喉のほうに流れるのだが、一部は必ずその右奥の空間に行ってしまう。まるでその空間自体が引力を持っているかのように。
 僕のこれまでの個人的な調査によれば、とりわけ詰まりやすい食べ物というのはまず牛スジ、鶏肉(部位によらず)、蕎麦やラーメンなどの細い麺、ほうれん草、えのき。ようするに細いもの。今日の昼、会社でお弁当を食べていたときにももちろん詰まった。今日食べたお弁当は親子丼のようになっていて、鶏もも肉と卵と玉ねぎを出汁と醤油とみりんでとじたような非常においしいおかずだったのだが、これらの素材が僕の口内に投じられ、咀嚼されたあと、食堂方面に向かう一行に別れを告げ、鶏もも肉だけが右奥の空間に挟まりに来たのだ。一発でベストのポジションを見つけて鎮座した鶏肉はしぶとく、僕が舌を口のなかでくねくね動かしてかき出そうとしてもびくともしない。最終的には左手の人差し指の出番となり、わざわざ洗面所まで行って手を洗いうがいをする形で幕を閉じた。そもそも会社に歯ブラシを持っていけばいいのかもしれないと思った。……というようなことへの意識が、お湯張りの日記を書くことで高まっており、いまこうやって文章にしているというわけである。

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 眠いので手短にいこう。お湯張りについてはもはや語るべきことはなくなってきた。「エァー」と思わず声を出してしまうようなお湯こそ気持ちのいいお湯であるというのは間違いないとして、ではベストな「エァー」が繰り出されるようなお湯とはどういうものなのかということを考えると、足をめいっぱいまで伸ばせること、さらに天井が高く、お湯が肌と触れ合って立てる音が広く反響するような抜けのよさがあるとなおよし、ということで、ようするにひとの少ない銭湯こそが理想であるといっているようなものであり、家の狭い湯船ではどだい無理な話だったということになる。はなから理想とはいえない環境で、それでもできる限りいいお湯を張ることこそがよりよい暮らしに繋がると信じて、せめて量や温度に気をつけながら蛇口を開け閉めするのである。そういうわけで、けっきょく量や温度の話に戻ってはくるわけだが、「とにかく量と温度を完璧にするのだ」と鼻息を荒くするのではなく、〝完璧〟というものが手に入らないということを了解したうえで「それでも量と温度にできる限り気を配ろう」と肩の力を抜いて取り組むと、気の持ちようもだいぶ変わってくる。
 そうやって楽な気持ちで風呂場をあらためて見ると、そもそもの風呂場の構造がいまさら気に入らなくなる。僕の家の風呂場には湯船に小さな洗面台が併設されている(あるいは洗面台が先で湯船が後かもしれない)。お湯を張るための蛇口というのはその洗面台の蛇口のことであり、ふつうは手をあらったりするのに使う蛇口スパウトを、湯船にお湯を張るときにだけ左に回す。そうするとスパウトの先がちょうど洗面台の外に出て湯船の上に来るので、お湯を張れるようになるというわけだが、これだとなんとなく、蛇口はあくまで洗面台用のものであり、それがたまたま構造的に湯船のほうにも届くので併用させてもらっているという感じがする。湯船用の蛇口なんてものはなくて、蛇口スパウトの先がたまたま湯船に届いたからどうにかお湯を張ることができているというか。だからどう、という話ではないのだが、なんとなく気に入らない。

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 夜、お湯を張ろうとして蛇口をひねり、水を触りながら温かくなってくるのをしばらく待っていたが、いつもならふんわりと湯気が立ち上がってくるであろう頃合いを過ぎても延々と冷水のみが出て、それを触って確かめる僕の右手がただ冷やされ続けていくだけだった。右手がおかしくなったのかと思って左手で触ってみても同じく冷たい。それならばやはりガスが止まっているのだろうとスマホでググりかけたところで、そういえば以前も、地震があったときにガスメーターが止まったのを思い出した。確認のために台所のガスコンロを点けようとしてみてもやはりカチカチ鳴るだけで火が立たない。ガスメーターは玄関横にあるので、スニーカーをつっかけて外に出て点検してみると赤く点滅していて、どうもこの赤い点滅はガスメーターの一時停止を示しているそうなので、メーターについている復帰ボタンというのを押した。しばらくするとガスが再び使えるようになった。そんなわけで一度は出てこないかと思われたお湯が出てくるようになって張った湯船はどうだったかというと、今日は量も温度も非常にちょうどよかった気がする。少し長めに浸かって、風呂上がりにぼーっとした。

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