努力する才能という論理が嫌いな理由

前置き


ある種、現状の自分を肯定するための悲鳴とも思っているので辛さは理解したいし、目につくところで書くべきではないのかもと思ったりはする。
遺伝的な形質で努力出来るかが決まるという論文もあるようで、努力する才能の存在自体はあるのかなと思っている。

本題

ではなぜ嫌いなのか。
ひとつは
「自分が人間と思える範囲で最下位」という醜悪さがあるように思うからだ。
彼らの中ではスマートフォンが扱えない知的障害者であったり、学歴的フィルター等で観測外にいる人間は「人間ではない」もしくは「存在しない」のではないかと感じることがある。
スマホ使って自己憐憫の弁を打てる時点で「君は大した知能じゃないか」と私は思うが
その土俵以下にいる人間を人間と認めていないような感覚がある。
「虹レアの中で最下位」であって決して「コモン」ではないというか、卑怯な感がある。

次に
「努力する才能がない」ことが学術的にわかってしまったとして救いがあるとも思えないからだ。
「あなたは生まれてきたのが間違いです。生かす社会的リソースは無駄です。精神的苦痛に耐えることを頑張ってください。まわりもあなたのような出来損ないを背負うことを耐えています。」
あまりにも救いがないというか、まだ努力の問題にしてもらえる方が優しいのではないかと思う。

最後に
「努力に対する解像度が低い」からだ。
僕程度が考えても
努力は「労力・時間を支払う」「効率を改善する」の2つには少なくとも分解出来ると思う。
前者に関してはまさしく才能の分野で「辛さに耐えられる」かどうかを示していると思う。
なので、向いていないことは努力しがたいという理屈にはなる。
しかし後者は才能の分野ではない。大体の努力のコツはネットに転がっている。
スマートフォンで自己憐憫を打てる知能があれば効率改善のコツは大抵普通に見つかる。
だから、やはり考えてないだけに感じてしまう。

後述

かわいそうランクを上げることで肯定感を上げるのも悪くはないと思うんだけど
生活保護ですら存続が怪しく感じられる中、世相がどんどん厳しくなる現代で、努力のマネごとすらしないパーツにどれくらいのリソースが分けてもらえるのかは僕は疑問に感じている。

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