5分小話「午後八時十分の空っぽ」

前回のお話の、その後の「彼」側のお話です

ただいま、と無意識に口にした声と、レジ袋の揺れる音が、玄関の壁に吸い込まれて消えた。
おかえり、と応える声はもうないことを思い出して、苦い思いがじわりと広がる。彼女がこの部屋から出て行って1週間、どうしてまだ、独りの部屋に慣れられていないのだろう。今日買ったアイスの数は間違えなかったのに。

俺と彼女は、恋人同士でも何でもない。
実家が隣同士のいわゆる幼馴染で、家族ぐるみで仲が良かったから、お互いのこともほとんど家族みたいなものだった。
だから、就職先の近くに俺が住んでいることを知った彼女の両親から「あなたが一緒なら安心だから」と、2人暮らしを提案されたときも何の違和感も覚えなかった。それこそ、小さい頃は夏になればビニールプールで素っ裸で遊んだ仲だ。友達や同僚には、ありがちで夢見すぎな目で見られたけど、当の本人達は本当にあっさりしたもので。長いこと一緒に近くで育って来た特別さはあっても、それ以上でもそれ以下でもなかった。

買ってきたものをそれぞれの場所に放り込んで、ソファに身体を預ける。誰もいない左側。冷蔵庫とかエアコンとか、そういう無機質なものの音だけが漂っている、一人の部屋。元に戻っただけ、一年と少し前の。殺風景に見えるのは、彼女が持ち込んだ色んなものがなくなったから。仕事も少し落ち着いて、随分早く帰れるようになったのに、やけに疲れている気がして、ソファに背中がべったりと貼りついて離れない。

「好きなひとができたから」
ここを出て行く理由を、彼女は小さくそう言った。
ずっと小さい頃から見てきたよく知る顔に、初めて見る表情を浮かべてそう言った。
それなら確かにと納得して、上手くいくことを素直に願って、引き止めることもしなかったけれど。
(……何で、今更)
先輩に叱られたと口を尖らせて拗ねること、それがコンビニのアイスで綻ぶこと、映画見ながらティッシュの箱を抱えて泣いていること、遅く帰ってもおかえりと迎えてくれること。玄関のドアを開ければ、当たり前にそこにあったもの。離れて初めていとおしいと気がつくなんて、ドラマかラヴソングの中の話だと思っていた。空っぽの部屋。自分の間抜けさに溢れたため息は、何にもかき消されずに虚しく揺れる。

ねえ、もしも。
今の俺の気持ちを、君と誰かのしあわせを願えないことを、君が知ったら。
君は、どんな顔をするだろう。

#超短編小説

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