「選択」のその先

いつどこで聞いた話だったか、「今日」「今」というのは、あらゆる二択を選んできた結果らしい。

例えば小さなもので言うと、お昼にパスタを食べるか否かとか、一本早いけどこの電車に乗るか否かとか。
大きなもので言うと、この学校会社に進学・就職するかとか、この人と結婚するかやめるかとか。
しかも選択の大小は、その先に進む道の変化に比例しないのがなかなかに厄介である。
「パスタじゃなくてとんかつを食べる」という選択をした結果、もう全然違う今日を迎えているかもしれないのだ。

私が今こうしてこんな話を書いているのも、その二択分岐が綿々と連なって行った結果らしい。考えてみれば、実はここにも「こんな話を書き出してみるか否か」「それをnoteで公開するか否か」という二択が発生している。そして、この話を読んでくださっている方には、「ちょっと中身をのぞいてみるか否か」「とりあえずもうちょっと読んでやるか否か」という選択が発生していて、結果、ここまで目を通してくださっていることになる。なるほど確かに。
その選択が「全てあらかじめ決められているものだ」と思えば運命論になるし、これは全て自分の意思で決めてきたことだと思えばそうでなくなる。

私自身が運命論者かどうかというと、いいとこ取りしたいのが正直なところである。
自分にとって都合のいい、しあわせな巡り合わせは「これは運命だ!」とも言っちゃいたいし、「私が切り拓いた道だ!」とも言っちゃいたい。私は予知能力があるわけでもなんでもないので、選んできた選択の結果を後から振り返ることしかできない。そうすると、その時取れた最善の手段だって、なんかもっとできることがあったような気がして、突然ものすごい後悔に襲われる時がある。その最善の選択が、「未来に立っている自分が見た、後出しジャンケンのようなもの」であっても。
後悔しないと心に決めることはできても、絶対に後悔しない選択なんてないのだろう。後から悔やむと書いて、後悔。これほど文字通りだと思う言葉もなかなかない。

去年、父を亡くした。よく食べてよく呑むひとで、元気がなかった姿をほとんどみたことがない。
だけれど、病気が見つかってからは早かった。
亡くなるまでの間、いやそもそもその前に、もっとありがとうとかごめんなさいとか、言わなきゃいけないことしなきゃいけないことがあっただろう、と、今になって悔やんでばかりいる。
だから自分にも近しい人にも、大事な人には後悔のないように接してほしい……とは思うものの、それって意外とハードルの高いことなのかもしれない。その選択を悔やむか悔やまないかは、後になってみないとわからないのだ。

年末年始にかけて、「あなたの運命」的な言葉がほろほろ飛び交う時期であるので、それに絡めてこんなことを書き出してみたわけであるけれども、果たして私の「運命」にはどう働くのだろう。
少なくとも、これを「読む」という選択をした方が、後悔しないことを願うばかりである。

#エッセイ

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