「つらい」を否定しないこと

人は案外、結構簡単に「つらい」を否定してしまう気がする。自分のも、他人のも。
「つらい」と思う対象度合いは人それぞれで、自分がつらいことが他人はつらくないことも多いし、逆もまた然り。で、そういうときに
「何でこれ(この程度)がつらいのか分からん」
って思うまでは仕方ないとして、
「つらいと思うことがおかしい」
になってしまうのは良くない
よなぁ、と思う。本来ならつらさなんてものは人と比べたってしょうがないものなんじゃなかろうか。「あの人に比べたら自分なんてまだまだじゃないか!」と自分を鼓舞する場合もあるけれどもね。

身近なところでいえば食べ物の好き嫌いだろうか。例えば私はパクチーがものすごく苦手で、アジア系料理を注文するときできるだけ除いてもらうようにするけども、大好きでもりもり食べられる人もいる。仕事もそうで、私は完璧にデスクワーク人間だが、身体を動かしていないのは耐えられない!という人もいるし、早朝の出勤が苦じゃない人も、逆に夜勤の方がいいという人もいる。
好き嫌い、得手不得手、快不快は人それぞれなのに、自分がポジティブ側にいるとき、つい「苦手、つらい」という側にいる人のことを「あり得ない!」って否定しちゃったりする。この「つらいと思うこと」自体を否定してしまうと、行き着く先は破綻だなぁと思うのだ。働きすぎとか、あと介護育児とか、そういうもので体や心を壊してしまうケースはこれでないかと考えている。

だから、「つらい」は出来る限りちゃんと出力して溜め込まない方がいいと思うが、
・自分の「つらい」を周りが許容/対応可能かどうか
・そもそも「つらい」を主張して対応を求めるのが適切かどうか
については、ちょっと難しいがまた別の話だ。
「つらい!!」を訴えてみて、周りとのうまい落とし所が見つかる場合もあるし、残念ながらつらいのは自分だけで、周りが対応するのは困難な場合もある。そうなったらもう適応するか、あとは環境を変えるくらいだろうか。
なんにせよ、つらいと思うこと自体を否定したり、我慢しすぎるのは、心にも体にもよくない。居場所を変えるのだって容易なことじゃないのは重々承知している。仕事だって住居だってね、動くのは本当に大変。それでも、壊れてしまうよりよっぽどいいと思うのだ。

ちなみに私は現在絶賛育児中で、「つらい」が発生しやすい状況にある。自分にも、周りにも。
子育てについて色んな方の話を聴くと、大きくなったらなったで大変なことがたくさん待っている。一番近いところではイヤイヤ期だろうか。
それでも、未来の自分の方が大変かもしれないからといって、今感じている大変さが楽になるわけもない。つらいもんはつらい。
そして、どうしたって付随してくるのが、子供の泣き声騒ぎ声問題である。
子供は宝だ、元気な証拠気にならないと言ってくださる声は本当にありがたい。でも、すぐそばで泣かるのはつらいと思うんですよ。加減のできるものじゃないからいつでも力一杯だし、そもそもが大人の気をひくようにできているそうだし。これからお仕事とか、または終わって疲れた帰りとか、そうでなくても体調や気持ちの収まりがいまいち悪い時とか、そんな時に泣かれたらうわぁ……って思うのはしょうがない。大半の方が、つらいなぁと思っても思うだけで、じっと我慢してくださっている。それで充分だなぁと個人的には思う。危害を加えるわけでないのだから、つらいと思うことまでを否定せずにいたい、いてほしいなぁと思う。そうしたら対話がしやすいと思うし、そこから子育てする人と周りとの、何かいい落とし所が見つかったらいいなぁと思うのだ。

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