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透明に縛られる

わたしの理解って正しいんだろうか。

わたしが常識だと思っている常識は果たして常識なんだろうか。

わたしが見ている世界は世間的に正常なんだろうか。

自分にとっての重労働を、生活の一部として淡々とこなせる人がいる。
それに悶え苦しむ日々だ。
料理も、わたしにとっては毎回が感動の連続だ。簡単なものしか作れないのに時間がかかって、やたら疲れて、毎回毎回大袈裟めの達成感を感じている。いざやろうとすると面倒くさくなって、できない自分を責めたりして。
でも世間の多くの人は、これを毎日程よいペースで続けて、いろんなレパートリーもあって、楽しんでいて、ちゃんと生活の一部なんだよな。


仕事とかお金のこととか。
わたしは大学卒業後海外に来てしまっているが、もし真っ当に就職していたとしたら、わたしと同い年の人たちにとってはどんなことが常識なんだろう。わたしの知らないことをたくさん知っていて、精神的にももう十分に自立しているのかもしれない。わたしがこれから学びたいと思っていることを、すでに熟知している人ばかりなのかもしれない。中学校の同級生はもう結婚していて子どもが2人いる。そんな同級生が増えてきた。高校の仲良しも、大学のサークルの先輩も婚約し始めている。仕事を始めて1~2年、そろそろ転職を考え始める同期もいる。


人はみんな違ってみんな良くて、それは真理なんだけれども、
自分がこの社会で生きていく上であまりにも物事を知らなさすぎたり、スキルがなさすぎたりすることは、とても危うい。
平均になりたいわけではないけど、平均を知った上での唯一になれれば理想的だなと思っている。


社会の普通に馴染めているように見えるあの人もこの人も、目の前にいる。周りにいる。優しく笑いかけてくれる。話を聞いてくれて、共感してくれる。

でも、わたしとあの人が見ている世界は同じではない。
あの人の方が、きっともっと広い世界を見ている。
わたしは共感してもらったことで、自分も世界をうまく見ていると錯覚しているだけで、実はわたしのすぐ外には透明な網が張ってあって、何も身動きが取れないような、そんな気持ちが常にしている。


見えているつもりになっている。
だから網目を広げたり、網を破ったりするための努力を怠っている。
生きても生きても、何か自分がずっと勘違いしているような気がして、
何か自分はずっと間違っていているような気がして、普通の幸せみたいなものを掴める気なんて到底しなくて。



しんどいなあ。
何をしても世界に馴染めない。
こんな感覚に浸ることがいかに生産性のないものか、
一応歳をとって分かり始めてきたけれど。



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