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今さら「リバー・ランズ・スルー・イット」の考察

あの頃理解し合えず、でも愛した者たちは妻を含め世を去った。

今は心で語りかける。

この歳で釣りも覚束ない。友達は止めるが、一人で流れに糸を投げ入れる。

谷間に黄昏が忍び寄ると、すべては消え、あるのは私の魂と思い出だけ。

そして川のせせらぎと四拍子のリズム、魚が川面をよぎる期待。

やがてすべては一つに溶け合い、その中を川が流れる。

洪水期に地球に刻まれた川は時の初めから岩を洗って流れ、岩は太古から雨に濡れてきた。

岩の下には言葉が……

その言葉の幾つかは岩のものだ。

私は川のとりこだ。

本作を知っている人も多いと思う。上は映画のラストでノーマンが語る台詞の文字起こししたものだ。とても含蓄深いのでこれについて考えてみたい。

予め断っておくけれど、僕は原作を読んでいないので、間違った解釈をしているだろうことは留意してほしい。あと台詞と原文の間に訳者の解釈の違いがあるけれど、今回は原文を優先した解釈だということも注意されたし。

さっそく本題に入るけれど、まずノーマンが自分たちの家族にとって宗教とフライフィッシングの間に明確な境界線はなかったと言っていることに注意したい。岩や川などの自然と川からの恵みは神からのギフトであり、それを得るための釣りは神への感謝と信仰に強く結びついている。

なのでリズミカルなキャスティングは祈りでもあり、美でもあるわけだ。フィッシングをスポーツではなくある種の精神的行為としてノーマンたちは捉えているため、作中もフィッシングを美しく表現している。

だからニールと折り合いが悪いのも当然で、彼はフィッシングを娯楽かスポーツだと思っているからだ。ポールが遅れてきたニールに「モンタナでは教会と仕事と釣りは時間厳守だ」という所にもそれが現れている。

自然と信仰が強い紐帯を持っていることを示唆する描写は映画の冒頭にある。ノーマンの父親は川の石を手にとって「雨が地を固めやがて岩になった。5億年も前のことだ。だがその前から岩の下には神の言葉があった」と言っている。

そしてノーマンは父親の言葉を受けて川のせせらぎに注意深く耳を澄ませていたら神の声が聞こえたかもしれないと述べるシーンがある。映画の冒頭と末尾の繋がりが、本作に込められた意味を知るための重要な鍵になる。

つまり岩は地質学的、即ち理性と、そしてキリスト教の信仰を意味し、しかしその岩の下にはそれ以前から神の言葉があった。

「ノーマンの魂と思い出」は彼の人生と記憶、「川のせせらぎ」は神の声を聞こうとする彼の敬虔、「四拍子のリズム」は彼の祈り、これらが「谷間に黄昏が忍び寄る」ような人生の終盤に「魚が川面をよぎる期待」、つまり希望の中に消えていく。

「やがてすべては一つに溶け合い」そして川になる。川は神話の大洪水、人類の原始から繋いできた希望であり人間の営みでもある。そしてそれは信仰という岩の上を流れている。岩は土から川の滴によって長い時間をかけて固められてきたものだ。

土は岩の下にある神の言葉そのものだから、神の言葉に従い信仰を固めてきたということだ。だから「その言葉の幾つかは」人間の信仰によるものだ。従って、ノーマンは父親のように川のせせらぎからも、岩と岩の下からも神の声”だけ”が聞こえているわけではないので、二人の間には浅くない溝が横たわっている。

さらにノーマンはポールとも溝を抱えている。彼は弟のように自然体で美しいフィッシングができず、技術で補おうとしている。「”バンヤン”のフライ2号」など多くのフライが入った箱を持っていることからそれが伺える。対してポールは帽子に幾つかくっつけている分だけだ。

そして、ポールの放蕩への不理解や、女性や結婚に対する考え方の不一致などもそうだ。またノーマンはシカゴでもどこでも行けるけれど、ポールはモンタナから離れられないという違いもある。

この家族は緊密に結びつきながら愛し合ってはいるが、しかしどうしても理解し合えない葛藤を抱えている。いや、むしろ深く愛し合えば合うほど、お互いの溝が浮き彫りになる。

キリストの教えは理想的な愛を説くけれど、そうはさせまいとする現実がある。父親への反抗と兄弟同士の反発が成長と露わになってくる。それでも最後には理解し合えるかもしれないという希望までもが彼らを苦しめる。

ノーマンは年老いて独りになっても、まだそれに囚われている。従順と反抗、希望と諦め、喜びと悲しみ、理想と現実。何一つ解決はしないけれど、生き続ける限りはキャスティングし続ける。彼は「川のとりこ」なのだ。

ありがとう♥