ハイヒールは疲れたって話
いやなことがあって少々ツイッター等々をお休みしていた。単刀直入に言おう。わたしには「かわいい」を定義するにはまだ幼すぎたということだ。もう少し考え直そうと思う。不快な思いをされた方々。本当に申し訳ない。
ただ、そのような指摘をうけて落ち込んでいるとき、ふと思った。
私は人生という道をハイヒールで歩いているのだなあ、と。そしてハイヒールで歩くのは自分はそこまでうまくないのだなあと。
人生を道に例えるひとはとても多いと思う。たぶん偉いアノ人もアノ人も、みんな。人生は道のようだと言っていた。分岐点があって、平坦な道ばかりではなくて、難しい道というものもある。ただ、同じ道を歩むにしても、「歩み方」の得手不得手は当然あるのだろうと考えた。
私の場合、「自分で自分の首を絞めている」ということをいいたいのだ。スニーカーで歩けばいいものを、わざとハイヒールで歩く。すぐ靴づれして、いたくて、そしてすぐ転んで、そのたびに立ち止まって。自分にといかける。どうしてハイヒールなんか選んだんだっけ。
もう一人の自分が答える。「私、自分の足好きじゃないもん」コンプレックスを隠すためのなけなしの自尊心。それが私にとってのヒールだ。
私の大好きな鈴木愛理ちゃんが言っていた。「私はハイヒールで踊り続ける。みばえがよければ、自分は多少きつくてもかまわない。」
と。
私も、ハイヒールを履き続けることをやめないだろう。でも、すぐ靴づれして、たまにヒールがおれて、たまには捻挫なんてしたりして。でもヒールをはいていない自分を認めたくなくて、いつも履いていたくて。
わがままだなあ、ハイヒールでうまく歩けないくせに、と転ぶ度に思う。
でも、転びやすいからこそ、きっと私は人に寄り添うこともできる。転ばないような歩き方も人に教えてあげられる。
多分、それでいいんだ。と
ヒールが折れた靴を捨てて、新しいヒールを履きながら私は空にむかってつぶやいた。
転んでも、ただで起きなければさ。