見出し画像

スイートピー、あるいはグリーンのイコン(MGMT『オラキュラー・スペクタキュラー』『コングラッチュレイションズ』レビュー)

<補足>

このレビュー自体は、私が2011年頃に書いたレビューを多少加筆・修正、誤字脱字や改行など加えたものであるが、情報としては下記の2点のアルバムが出ていた段階のものであるということを念頭に置いていただきたい。

オラキュラー・スペクタキュラー - Oracular Spectacular (2007年)
コングラチュレイションズ - Congratulations (2010年)

また、MGMTとは何か?という点についても、詳細についてはあまり語っていない部分があるため、気になった場合はYouTubeなりWikipediaなどをご覧いただければ幸いである。

パッケージングされたポップネス

「一番最悪なサウンドを作ることを目標にしていた(ベン・ゴールドワッサー)」、「反メジャーレーベル的アティチュードで遣っていた、キャッチーなサウンドは作りたくないんだ(アンドリュー・ヴァンウィンガーデン)」。

前置きとして、2008年にドロップされ、同年のサマーソニックでの来日によって本国でも瞬く間にその頭角を現したマネージメントことMGMT のファースト・アルバムである『オラキュラー・スペクタキュラー』は、プロデューサー=デイヴ・フリードマンの手腕光る名作であると私は思う。

コネチカット州のリベラル・アーツ大学出身の変わり者たちであるベン・ゴールドワッサー、アンドリュー・ヴァンウィンガーデンという名前から察する通り、(目立ちたいけれど、目立ちたくないというような)彼等の屈折した精神とその音楽性の持つポップネスとは紙一重であり、ともすればただの引き蘢りのキッズによるマスターベーションと呼ばれてしまいがちなベッドルームミュージック的なアティチュードを丁寧にパッケージングし、「商品」に仕立て上げているからだ。

MGMTの、メジャー・デビュー前の音源が何処かにあったら聴いて欲しい。すると、彼らのデビューアルバムである『オラキュラー・ スペクタキュラー』のマネージャーに起用されたマーキュリー・レヴのデイヴ・フリードマンの芳香がそこはかとなく、いや実体を持った音として漂ってくるのを感じるのではないだろうかと思う。

『オラキュラー・スペクタキュラー』で展開した「明晰なポップネス」に彼の多大なる加筆・修正があったことは、MGMTの初期デモ音源のヘロヘロ、というより「ヘナチョコ」と敢えて言いたくなるような、“バックバンドが妙に上手かったりする”と称される彼等の公演などを観ると一目瞭然であると思う。

デジタル処理を施された彼等の音源と実態としての彼等との間にはかなりギャップがあり、どちらかというとライブで観るときの本人たちの楽器や歌に関する技術はあまり高い方ではないし、バンドはそれぞれが自分の好きなことをやっていたり、コーラスが釣り合わなかったりと確かにバランスに妙なところがあって、佇まいとしては、とにかくしっかりしろと言いたくなるような、糠に釘を刺しているようなースタジアム級の会場や大型フェスなどでオーディエンスの大合唱が起きている事が不思議に思えるような節もある。

(ただ、トーキング・ヘッズや80年代のポップス然としたアレンジや、ドアーズ的なプログレやサイケのライン、或いは如何にもなスタジオミュージシャン然とした渋いギターラインが入ったりと、ライブ自体は魅力的で、憎いアプローチがあったりする。)

イコンのイコン、皮肉の皮肉

どんどんずれて行くイメージという表層と、実体との間を漂う自意識、という意味では、「神懸かり的な大々的見せ物」というアルバム・タイトルは二重に皮肉を含んだ、皮肉を包括する皮肉、とも取れるかもしれない。

「一番最悪なサウンドを作ることを目標にしていた(ベン・ゴールドワッサー)」、「反メジャーレーベル的アティチュードで遣っていた、キャッチーなサウンドは作りたくないんだ(アンドリュー・ヴァンウィンガーデン)」なとど嘯く変わり者たちの作成したアルバムで、そんな彼らが代表作「time to pretend」で歌っていることが「有名になって、セルアウト」した、「スター」の空虚な人生であるという辺りが面白い。

「time to pretend」はアルバム作成よりも前から出来ていた歌ではあるようだが、同様に歌詞で言うならば“キッズ、頼むから自制を学んでくれ (「kids」)”、“家とか、もう何もかもがバラバラになっちゃったんだ(「pieces of what」)”、というパラノイアックなラインが妙にコミカルに見える。

そのどんどんずれて行くイメージという表層と、実体との間を漂う自意識、という意味では、「神懸かり的な大々的見せ物」というアルバム・タイトルは二重に皮肉を含んだ、皮肉を包括する皮肉、とも取れるかもしれない。

“僕は変わって行く−みんな一緒に、一緒に、一緒に…(「The Youth」)”

ただ、様々な憶測が飛び交うなか「アイドル」なるものと「アーティスト」の違い、なんていうのが「症候群」的に一時期騒がれたが、彼等の場合は「その中間」というか、異なるベクトルを持った実験的音群の坩堝とでも言える彼等のライブを見るにつけ、或いは相対的に彼等の存在を観察すると、ファイアアーベントのいうところのポストモダン的「何でもあり(anything goes)」と言ってしまえるような、何でも受け入れられる懐の深さと、フレキシビリティがあるように感じる。

そういった意味では、MGMTは迂回して、外堀からパースペクティヴを描くアーティストだといえるのではないかと思う。(存在そのものが直接的に「意味」を為さないという意味で)

“俺には便利な奴が現れて、色んなことをやってくれる/何が起きてるのかはわからないけど/俺は盛大に、おめでとうって祝ってもらえればいいんだ(「Congratulations」)”

ところで冒頭でも触れたデイヴ・フリードマンのマーキュリー・レヴといえば、ニューヨークはバッファローで80年代に結成されたバンドである。

ポストパンクの流れを汲んだローファイなギター・チューン、ダンス・ミュージックへの目配せが見られる彼等の音楽と言えば、80代後半から胎動が始まっていたオルタナティヴロックのムーヴメントに則っていたともいえるが、自らの映画作品のサウンドトラックを作成するために結成されたという出自の影響もあってか、結成後暫くの間日の目を見ることが無かった。

彼等はキャリアを積んだ98 年に発売された『Deserter's Songs』にて一躍脚光を浴び、01年には『All Is Dream』をドロップ、これは最高傑作と名高いアルバムで、以降サマーソニック等で来日を果たすなどしており、著者も実際に足を運んだことがある。

この頃になると彼らの音楽においてはオーケストラ色が強くなり、ポストパンクのダンス・ミュージック的ビートへの拘泥はそのままに、ローファイというよりはシューゲイザー、プログレ、エクス ペリメンタル的要素の強いやや大味なプロダクションになっていて、私はその辺りの予備知識の全くないまま、初期のローファイ・オルタナ然とした佇まいというバイアスの掛かった目で見た09年のサマーソニックでのライヴ・パフォーマンスには驚いてしまった記憶がある。

凡庸さへの回帰

制作を重ねるごとの作者のマニエリスム。世間にダイヴしていくイコンとしての自分と、自我と自意識。凡庸さへの回帰はある種のミニマリズムであると思う。ミニマリズムはダンスである。

1877 年、イギリスの学者でチャールズ・ダーウィンの従兄弟であったフランシス・ガルトンは、スイートピーを使用した自身の統計学的な研究から「平均値への回帰」という統計現象を発見した。

曰く、子世代種子の平均直径を親世代種子の平均直径に対して図示すると線形回帰に近い関係を起こすー特に子世代の平均直径は親世代の平均直径と比較すると、それらを包括する「全体」の平均直径に近付く傾向があるという。

これを人間に当てはめた例としては、高身長の父親も低身長の父親も、子供達の身長は統計学的に言えば父親たちの身長よりも、ヒトというもう少し大きな枠組みの(任意のマスの)「平均値」に近くなるというものが有名である。(但しこれらは遺伝子をコード化して解析するメンデル派の遺伝の「法則」に関して応用可能なものではなく飽く迄、統計学における現象である。)

「英NME誌をはじめ欧米や日本のメディアでも年間 No.1アルバムに選ばれまく」った『オラキュラー・スペクタキュラー』からの一連の快進撃を尻目に、囲い込まれた象徴界の檻の中で彼らは、呪詛のような言葉を紡ぎ出す。

続くセカンド・アルバム『コングラチュレイションズ』で彼らは「kids」を、エレクトロクラッシュを振り切るようにギター・チューンを全面に出し、「愛と平和と芸術と自由を愛する」ヘイト・アッシュベリーの風に乗って「サーフィン」をしてみせる。

なので、セカンドアルバム『Congratulations』における彼等の評価として“ありきたり”という言葉をよく聞いたのも納得である。

制作を重ねるごとの作者のマニエリスム。世間にダイヴしていくイコンとしての自分と、自我と自意識。凡庸さへの回帰はある種のミニマリズムであると思う。ミニマリズムはダンスである。だから、合っている。そしてそもそも、その必要もないー「Congratulations」のヴィデオで彼等は、少しずつ欠落して行く身体を受け入れ、身体の葬送を場違いな表情で、拍手で見送る。

ちなみに夢占いで「波」は生活状態、「海」は精神状態を表すという。

“俺の幸運なんてくそくらえ/優雅にふるまってみてもどこか俺も後ろめたい気分/腕を広げ、おめでとう、とお祝いの言葉を浴びるだけ”と締めくくる「Congratulations」のラインが、私には切実に迫ってくる。

空虚な人生、作られた偶像、皮肉の皮肉ーそういったイコンの渦中に自ら没入していく歪んだニヒリズムは見ていて痛快である。


もしお気に召しましたらサポートで投げ銭をいただけると大変に嬉しいです。イイねボタンも励みになります。いつもありがとうございます〜。