私の善は100%偽善です
偽善と聞くと負のイメージがある。本当にそうなのかと思い、善と偽善について考えてみた。
善とは、道徳的に正しい事、多くの人が是認するようなもの(Wikipedia)らしい。また、一神教では善と悪の対立(神と悪魔の対立)で世界を捉え、善に生きることで天国への扉が開くとされている。その中でもキリスト教、イスラム教は欧米、中東の倫理の礎になったとも書かれていた。
宗教が倫理の礎となり、倫理(≒道徳)に沿った行いが善であるなら、「善=天国に行くための行動」と解釈できる。天国に行きたいから人助けをする、と聞くと もはや偽善に思えてしまう(正直これは詭弁ですね)。
ここで私は善を否定したいわけではない。偽善でいいじゃんと言いたい。人を助けるとき、褒められたい、嫌な奴だと思われたくない、といった考え(欲望)が多少なりとも心の中にあるはずだ。それはある意味偽善であり、そうであれば私は偽善しかしたことがない。「おばあちゃんを助けた理由は、カッコつけ半分です。」が本心だ。
偽善者に対する批判は、欲の大きさや卑しさに対する「品の無さ」が主な理由だろう。そこは個人の主観なので否定しない。ただ、助けられた側にとって、善は有難いものであることは間違いない。結論としては、自分と相手を想って、善(偽善)を行うことが一番重要なのではと思う。
(補足)偽善は「宗教や道徳的信念に関し、真の性格・性向を隠す一方で、美徳または善といった見せかけの外観を作ること(Wikipedia)」となっている。偽善か否かの話を厳密にするならば、善を行うときに欲を隠しているかが重要なポイントになるだろう。私は欲を隠していないので実は偽善ではなく善だったのかもしれない…。なお、仏教において善は「幸せな運命を生み出す行い」のことで、「この世から死後に渡って幸せな運命を生じるものを善という」らしい。天国に行くために善をする、という意味では似ているが、仏教が日本における倫理の礎になったかという議論は放っておく。論拠がWikiとかなのは許して欲しい。所詮一般人がテキトーに書いていることなので(笑)。
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