スタンプ押すみたいに「ホロ苦」っていうの、もうやめませんかね?

先日、ベイスターズの昨年のドラフト1位、森選手が練習試合に出場したことを報じた記事に、「ホロ苦」という見出しがつきました。

これまでも、スポーツ紙の記事で「ホロ苦」という見出しを見るたびに「はい出ました、ホロ苦」とうんざりしていましたが、高卒ルーキーの春季キャンプ、練習試合での「ホロ苦」表現にいよいよガマンがならなくなり、以下のようなツイートをしました。

多くの方に共有いただきましたが、「それが糧になる」「四球を見出しにしても」というリプも飛んできて、「ちょっと表現が不十分だったな」「そこじゃなーい!」と思いました。そこで改めて、なぜ私がスポーツ紙における「ホロ苦」表現が嫌いなのかをまとめておきたいと思います。

1.初めての◯◯で結果が出ないと、なんでもかんでも「ホロ苦」とするやっつけ感

 まず、記事の見出しとしての個性がないですよね。高卒ルーキーの春季キャンプ中の練習試合から「ホロ苦」を使うなんて、ホロ苦の大安売り、狼少年状態。本当に本当にホロ苦さを感じるような場面が今後あっても、読者にホロ苦さなんて伝わってくるわけがない。読者は苦さに慣れさせられてしまっているのです。しかも、この「ホロ苦」、「ホロ苦ファンクラブ」「ホロ苦見出しを撲滅させない会」でもあるかと思うくらい、時代が変わっても、いろいろな野球メディアが登場しても、スポーツ紙が長年愛用している。何でも変わればいいということでもないけれど、スポーツ紙に関わる人たちはこの「長年変わらない感じ」をどう思っているのでしょう。スポーツ紙だけが使う言葉に執着し、「長年変わらない感じ」を死守することが、スポーツ紙を手にしてもらい続けるための生きる道だということなら、まぁ、したいようにすればいいんじゃん(私は買う&読む回数は減っていくだろうけれど)、と思いますが、な〜んも考えていないのであれば、スポーツ紙の未来は本当に厳しいものがあるなぁ、と思うばかり。

2.「ホロ苦」からは、エールも、叱咤も、何も感じない 

やっとその舞台に立った選手、いよいよ結果を出さなければいけない選手。状況や立場はいろいろなのに、流れ作業でスタンプ押すみたいに「ホロ苦」と見出しをつける。そのお手軽さからは、エールも、叱咤も、何も感じない。何も、選手は一生懸命やっているんだから、けなすな、ホメよ、たたえよ、と言っているわけではない。プロ選手の記事を書くメディアにそんな過保護なことは期待していません。「結果が出なかった」という結果につながった理由が知りたいし、それは結果が出なかっただけで前進なのか足踏みなのか後退なのか。「ホロ苦」という言葉を使って、そのことを読者に伝えることをサボらないでほしい。

3. そもそも、そんなに苦いか? 

結果が出なかった経験が、プロ野球選手として長く活躍する糧になると、私ももちろん思うけれど、森選手のことでいえばこの時期に試合に出て3球三振をした程度のことは糧にならなくてもいい。この先のもっと大きな場面での失敗こそ、スター選手の糧にふさわしいってもの。苦さなんてこれっぽっちも感じていなくて結構。3球三振、いいじゃない。本人は得るものしかない、ファンには希望しかない……と、18歳のドライチ選手に対して何を語ってもいいこの時期に、何を語っても楽しいこの時期に、ホロ苦という使い古された言葉でファンをつまらない大人の世界に連れていく。選手によってはその世界に引っ張られていく。これが今回の一番のスポーツ紙の罪だと思う。

などなど、ここまで、前世で「ホロ苦」という言葉に殺されたのかのような文章を書いてきましたが、「ホロ苦」という言葉と同じように、雑に、簡単に、何の感情も込めずに、使われている“スポーツ紙用語”はまだあると思います。スポーツ紙はひとつの文化。野球人気、野球人口も気になるところでしょうが、スポーツ紙がやれることもあるはず。それはまず、取材対象と読者に対して、プロであることだと思います。

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