新聞が読めるようになるニュース解説#7ハンセン病ー見学クルーズに参加して②人間回復の橋
こんにちは、あひる編集長です。前回に続き、岡山県にあるハンセン病の国立療養所・長島愛生園で行われた、ハンセン病に対する理解を深める「見学クルーズ」について書いていきたいと思います。
前回記事はこちら
まず、国立ハンセン病療養所について簡単に簡単に説明したのち、クルーズの行程を写真で紹介していきます。
ハンセン病療養所とは
国立ハンセン病療養所は、ハンセン病の元患者が暮らす施設。北は青森県、南は沖縄県まで、全国に13カ所あります。
※厚生労働省の「医師募集」のホームページにわかりやすい地図がありましたので、以下に記しておきます。
https://www.mhlw.go.jp/general/saiyo/hansen-doctor/facilities.html
今回行った長島には、長島愛生園と邑久光明園の二つの施設があります。愛生園は1930年に開設され、国立療養所としては最も古い歴史を持ちます。一方光明園は、大阪府などが1909年に設置した「外島保養院」という施設がルーツで、台風により壊滅したため1938年に長島へ移転してきました。
岡山から瀬戸内海を挟んで南向かいの香川県には、高松市の大島に「大島青松(せいしょう)園」があり、これらを「瀬戸内3園」と総称します。
愛生園には、現在123人が入所。平均年齢は87歳、平均在園年数は62年にものぼるとのことです。
今回のルート
手書きの地図で申し訳ありません。スタートは兵庫県境の港町、備前市日生(ひなせ)町から。JR日生駅前港を出発し、日生諸島の島々を巡ったのち、長島を時計回りに回っていきます。青い点線のコースがクルージングの経路です。
長島は文字通り東西に長い島で、周囲16キロ。島の中央部に愛生園が、西側に光明園があります。
今年の見学クルーズは5月下旬から始まる予定でしたが、岡山県に新型コロナウイルスの緊急事態宣言が出されたため、6月下旬に延期となりました。この日はあいにくの空模様でしたが、県内外から約40人の参加者が集まりました。
鹿久居島~もう一つの候補地~
橋の向こうに見えるのが「鹿久居島(かくいじま)」です。愛生園の初代園長・光田健輔が療養所の療養所の設置計画を進めていたときに、長島とともに候補とした上がったのがこの島です。
ハンセン病患者の医療に取り組んだ光田は、患者の隔離を進めるべきという考えを持っており、全国で療養所の候補地を探してました。当初は沖縄県の西表島を最有力としましたが、マラリア感染の危険があったこと、地元住民の猛反対に遭ったこと、そして何より遠すぎることから断念。景色がよく、隔離が容易な瀬戸内の島での設置を決めました。
ちなみに鹿久居島は岡山県内最大の島ですが、ほとんどが国有地で人口はごくわずか。戦後、原子力発電所の設置計画も浮上しましたが、住民の猛反対でとん挫しました。今は観光ミカン狩り園が点在する観光の島となっています。
日生港を出て30分ほどで長島に近づいてきました。写真は愛生園を南から見た風景です。
邑久長島大橋~人間回復の橋~
さらに進んで長島の西側に回り込み、本土との間の狭い海峡「瀬溝(せみぞ)の瀬戸」に差し掛かります。頭上に架かるのは邑久長島大橋。入所者たちの再三の願いにより、1988年にようやっと完成し、「人間回復の橋」の異名を持っています。
この海峡は、幅がわずか30メートル。にもかかわらず、ハンセン病患者の隔離政策のもと、橋を架けられることはありませんでした。やむを得ない事情を抱えた入所者は、対岸の漁師に賄賂を渡して船を出してもらったり、対岸まで泳いだりして脱走する人もいました。ただ、島の周りは流れが速いため、途中で力尽き命を落とす人も多くいました。
戦後、入所者たちから架橋を求める動きが上がりました。署名活動や国会への請願、架橋資金のカンパなどを経て、橋は造られたのです。
この後訪れた愛生園の歴史館で、橋の渡り初めの様子の映像を見ましたが、看護師らに支えられながらおぼつかない足で渡るお年寄りや、橋銘板を何度もなでる入所者の姿から、入所者がいかに完成を待ち望んでいたかがよく伝わってきました。橋は、強制隔離を必要としない証という意味を持っており、そういう点では普通の橋以上の価値を持っています。
まもなく長島に上陸です。海に浮かぶのはカキを養殖するいかだ。島の周りの虫明(むしあげ)、日生は岡山県内有数のカキの産地として知られています。ご当地グルメの「カキオコ」は県外でも有名で、冬のシーズンには関西地区からの観光客が多く訪れます。
きょうはこの辺で。次回は、島に上陸し、愛生園歴史館に展示されている資料をご紹介します。