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岐阜からつくば。そして

2024年4月 天皇杯JFA第104回全日本サッカー選手権大会
広島県代表 福山シティFC


2024年4月21日、エディオンピースウイング広島でが行われた天皇杯JFA第104回全日本サッカー選手権大会 広島県代表決定戦決勝。この写真は中国リーグに属する福山シティFCが広島経済大学を下し、広島県代表になった時の記念写真。この写真を撮影をしたのは僕だ。大変報告が遅れましたが2024年3月。三嶋圭太 a.k.a Balcam は広島県福山市をホームタウンとする中国1部に所属する福山シティFCに転職しました。久々のnote更新。

大きく振り返って何故サッカー界に転職したのか。そして今は何故、福山シティFCに所属しているのか。何回かに分けて綴ろうと思います。
まずはここから。

きっかけ

2020年3月。僕はサッカークラブ『つくばFC』に転職した。遅くなってしまったが転職に至った理由をここに綴ります。

 2018年の春。何より音楽に夢中で、DJでイベントに誘われること、あるいはイベントのフライヤーやCDジャケットのデザインを自分と依頼者の双方が納得いくものに仕上げること。あとは齢30を過ぎてからスケボーカルチャーに魅了されスケボーで街をクルージングする事が好き。そんな38歳の妻子持ちでパッケージデザイン会社で働いてた1人の父親。それが当時の僕。

会社の社員旅行で行った台湾での1枚 当時のDJプロフィール写真にも使ってた。

プライベートで作成したフライヤーや音源ジャケットデザイン


 僕には毎週末の勢いで全力で音楽を軸に遊んでいた仲間たちがいる。20代前半からの付き合い。一部は高校の時からずっとだ。30歳前後から僕を含めた何人かが、めでたく結婚をして家庭を持ち、以前のように馬鹿みたく遊ばなくなっていった。僕の人生において、また自分たらしめるものとして音楽は多くを占めていた。だが徐々にみんなで遊ぶ回数が減っていってしまった。今思えば、僕は何か物足りない日々を過ごしていたのだと思う。

 そんな僕を久しぶりに熱中させたのがFC岐阜だった。きっかけは娘が習い事で始めたFC岐阜のチアダンス。娘は初めに近くのスポーツクラブでチアダンスを習っていた。だが嫁がもっと大きな舞台でも踊れる環境で習わせたかったのか、今度体験に行ってくると僕にチラシを見せてくれた。それがFC岐阜のチアダンススクール『グリーンエンジェルス』のチラシ。正直僕はこれまで娘がダンスの習い事に通っていることに、そこまで乗り気ではなかった。意味あんのかな?なんか身になるものあるのかな?と思っていた。そんな僕にJクラブのチアダンス教室を選んできた嫁には流石だと思った。僕がサッカーが大好きなことを嫌というほど知っている嫁。そりゃFC岐阜で習ってくれた方がサッカーも見れるしラッキーじゃん!その程度の感覚で習わせることをOKした。

 娘のグリーンエンジェルスの入団?式。会場はまさかの長良川競技場。しかもピッチの上で行われた。弱小高校のサッカー部員であった僕からしたら聖地に近い長良川競技場。羨ましかったな。その日から娘が出演するFC岐阜の試合を見に行く様になった。何度か見に行くうちに僕の中で変化が起きていた。全く知らなかった選手のことも、徐々に覚えていき、アウェーの結果も気にする様になっていた。終いには娘が出ない平日ナイターゲームを見に行く程、知らず知らずのうちに熱中していた。思い返せば2018シーズンのFC岐阜にはポテンシャルを秘めた選手が沢山いた。宮本航汰(現清水)、長沼洋一(現鳥栖/J1)、イヨハヘンリー理(現広島/J1)、島村拓弥(現柏/J1)、山岸祐也(現名古屋/J1)、そして古橋亨梧(現セルティック/スコットランド)。当時の岐阜を率いていた大木武監督は彼らのポテンシャルを感じていたのか。荒削りではあるが、ハマれば半端ない変態パスサッカーに魅了され、僕はFC岐阜にどっぷりハマってしまった。
 思い返せば僕は、中高とサッカー部に所属しており、長い間サッカーをやってきた。中学(長森中学校)では素晴らしい仲間に出会いサッカーの面白さに溺れた。高校(岐阜東高校)では半端ない弱小校であったが、キャプテンという人生で初めて集団のリーダーになるという経験が僕を成長させてくれた。大学生となり、草サッカーをたまにやっていたのだが、物足りなく感じていた。やっぱり負けてはいけない公式戦がやりたいと思うようになった。そこで中高で知り合ったサッカー仲間に声をかけて自分達でチームを作った。チーム名は『鬼球(おにきゅう』。このチームで岐阜地区リーグを2年戦った。中学から数えると8年という歳月をサッカーに費やし夢中になっていた。そのサッカーに対する気持ちが娘の習い事をきっかけに、再び熱を帯びてきた。
 ある週末、いつものように家族でスタジアムに向かい、試合前に娘のダンスを見て、サッカーも見て、1日を満喫して家に帰る途中に思った。応援しているサッカー選手は家族でも友人、知人でもない、いわゆる他人であるということ。また、その他人の試合結果に喜びを爆発させたり、落ち込んだり、一喜一憂している自分がいることに気づいた。そして同時に『この喜びをもっと自分ごとに出来たらどれだけ楽しいだろう。勝った時どれだけ嬉しいだろう』と、思うようになった。

バックスタンドからの長良川競技場
雨の日に娘の月雲と見に行った試合

 僕は大学を卒業してから15年間、観光土産のパッケージを主に扱っている印刷会社で、ディレクター兼デザイナーとして働いてきた。自分で言うのも何だが、僕個人の業績、評価は悪かったわけでもなかった。何なら良い方だったと思う。だが、食品パッケージデザインというものは、女性の好み、トレンドに大きく左右されるジャンルで、いわゆる『かわいい』という女性特有の魔法の言葉が飛び交う業界であった。その『かわいい』が理解できなかった僕は、この業界で生きていくことができるのか?このまま年齢を重ねれば用無しになってしまうのではないか?と不安に思うようになっていった。
 偶然にも同時期にサッカーに夢中になっていた僕は、ある時FC岐阜のホームゲームをボヤッと俯瞰して見ている時、ある事に気づいた。サッカーには考える仕事、作る仕事が沢山あるのではないか?ということ。グッズ制作、ユニフォームデザイン、イベントの企画、告知のチラシデザイン、ネット用のバナーデザインなど、至る場面にデザインが見え隠れする。もしかしたら、10年以上パッケージデザインをしてきた経験が活かせるのではないか?先に記した様に、『かわいい』という魔法の言葉に迷いが生じていた僕は、サッカー業界への転職を嫁に相談した。リスクのある転職であるため、反対されると思っていたが、嫁からは思いもよらない返答が返ってきた。『そもそも受かるかも分からない転職の相談されても何も言えないから、どこか受かってから相談して』と。心の広いのか、半端なく肝の座った嫁の言葉に背中を押してもらい、国内外問わず日本語で求人を出しているサッカークラブ全てに応募した。だが事は簡単には運ばず、不採用、見送りの連続だった。年齢も38歳でサッカー業界の経験もない自分には厳しい選択をしたんだな。と思いながらも時間がある時に求人を探し、応募、連絡をし続けた。その中の一つのクラブから見学に来ないか?という連絡が返ってきた。それが1度目の転職先となった『つくばFC』だった。全く聞いたこともない、存在も知らないクラブであったがサッカー界への転職を何としても叶えたい僕は転職をしたいと嫁に伝えた。嫁は再び僕の背中を押してくれた。そして2020年3月1日。つくばFCに転職した。

2020年3月 コロナが猛威を振るう直前に転職

何の縁もゆかりもない『つくば』という土地に、ただサッカーの仕事をしたいという意気込みだけ一丁前に持って転職した。経済的な圧迫、家族との触れ合い、友人関係、条件を並べれば絶対的に現状維持した方が良いのが一目瞭然な転職。それでも好奇心と自分ごととして勝利の歓喜を味わいたい。そしていつか憧れのJの舞台で自分も仕事をしたい。そんな夢だけを燃料に不確定な将来に対する希望と、家族の理解があった上で実現した今回の選択を無駄にするわけいかないという強い覚悟を持って転職した。

次は1度目の転職先『つくばFC』で過ごしたの濃密な時間と、素晴らしい経験について記したいと思います。


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