ゴジラ考

令和5年(2023年)11月半ば。楽観と不安を半分ずつ抱えながら映画「ゴジラ−1.0」を観終わったぼくは、そのあまりにも相入れない感覚にしばらく憤りがとまらなかった。それは個人的な好みの問題や映画としての出来の良し悪しではなく、「こんなものはゴジラではない」という拒否反応だった。
ぼくはそれほど映画史に詳しくもないし、ゴジラ映画だって数作を観た程度でしかない。今作も観たのは2回だけだし、様々な観点から批評したり語れるような知識があるわけでもないことはあらかじめ断っておく。しかし少なくとも「2010〜20年代の日本社会」を生きているひとりとして、今作には受け容れがたい何かが通底しているという直感があった。ただ鑑賞直後は何がダメなのかはなかなか言語化できず、そのうちちゃんと指摘する人が出てくるだろうとも思っていた。

ところが「ゴジラ−1.0」は世間的にはおおむね高評価で、11月半ばごろでは映画情報サイトの口コミを見ても、「人間ドラマが良かった」、「CG(VFX)の出来がすごい」、「こんなゴジラが見たかった」などという声で溢れていた。もちろん否定的なレビューもいくつかあったが、その当時ではどれも自分のモヤモヤしていることとはちょっと違う視点からの批判だった。その後12月にアメリカで公開され、邦画の実写作品としては全米興収歴代1位を更新するヒット作となり、3月にはアカデミー賞(視覚効果賞)をとってしまった。
もちろん日本映画界が生み出した傑作キャラクターである怪獣王ゴジラの新作なのだから、期待度も高かっただろうし邦画としては出来映えも良いほうだとは思うが、しかしなぜ、こんなにも怒りが湧いてくるのか。改めてゴジラ映画について調べたり、今作への批評をいくつか読んだり、観た人と話し合ったりするうちに、「ゴジラ−1.0」には現代日本の空気とでも言うべきものが煮詰っていることが分かってきた。

ゴジラという映画はそのはじまりからして、当時の日本社会というものと分かちがたい映像文化として生み出されてきた。ならばゴジラという存在を通して、ぼくたちがいま生きている「日本」のかたちを見つめ直すこともできるだろう。稚拙な文章ではあるが、しばらくお付き合いいただきたい。


「ゴジラ−1.0」
2023/11/3公開。本編125分。監督:山崎貴、配給:東宝。


初代「ゴジラ(1954)」から約70年、前作の「シン・ゴジラ(2016)」からは7年ぶり。日本で製作された実写のゴジラ映画としては30作目となる。

舞台は終戦から数年後(1945〜47)の日本。戦争によって焦土と化し、なにもかもを失って「無(ゼロ)」となったところに追い打ちをかけるようにゴジラが出現、その圧倒的な力で「負(マイナス)」へと叩き落とす。

神木隆之介が演じる元特攻隊員の主人公・敷島浩一をはじめ、戦争を生き延びた名もなき人々が、ゴジラに対して生きて抗う術を探っていく。

※以下の文章にはネタバレも含まれますので、気になる方はご注意ください。


1954年の誕生から約70年間で、国内の実写映画だけでも30本、実写以外や海外版も含めて実に様々なゴジラが生み出されてきた。ときに人間の味方となって様々な怪獣とのバトルを繰り広げることもあれば、地震や台風のような自然災害の象徴として人間を襲うこともあり、ゴジラの数だけその解釈もまたそれぞれにあるわけだが、人智を超えた力をもつ生物という点はほとんど共通している。
しかし「ゴジラ−1.0」に登場するゴジラはシナリオ上、実に都合よく登場する。当初はモンスターのような出立ちで登場し、中盤では主人公を苦しめるPTSDや原爆の脅威として描かれ、最後は英霊として海に鎮められる。このメタファーの変化に対して、例えば前作の「シン・ゴジラ」では生物の進化という形で筋を通していたが、今作にはそうした一貫性は見られない。

そんな今作のゴジラを一言で表すとすれば、それは「戦争」なのだろう。監督自身が昭和を題材とした作品を多く作っているし、今作も舞台となるのは戦後すぐの日本なので、戦争のもたらした空気感をゴジラに託して描きたかったというのもわかる。だがあの時代を描く以上、それがフィクションだろうと何だろうと、現実に起きたことと比較せざるを得ない。その意味で今作では、戦争という状態に対する捉え方があまりにも稚拙である。
もちろんぼくも、戦前戦後の空気を直接体験しているわけではない。しかしそれは、かつての戦争を経験した当事者ですらそうなのだ。前線に送られた兵隊と、本土で暮らしていた人の体験は全く異なる。東京や大阪で空襲によって焼け出さたり、広島と長崎で被爆したりした人たちと、疎開先の田舎に住んでいた人たちに、同じ記憶があろうはずもない。だがそのすべての人たちが、戦争という状態を作り上げていった。
今作に出てくる登場人物たちの間でも、それぞれに戦争の捉え方が異なるのがわかる。最たる例は「戦争を知らないのは、幸せなんだぞ」と言われる小僧・水島だろう。主人公たちの対ゴジラ戦も「死ぬための戦いではなく、生きるための戦い」だというセリフで、先の大戦とは別物だと位置付けられる。
確かにゴジラは圧倒的かつ理不尽な暴力をもたらしてくる存在だ。だが「シン・ゴジラ」のように突然やってきてしまう災害とは異なり、戦争とはあくまで人が起こすものであって、人が人へもたらしうる暴力の中でも最悪のケースなのだ。

戦争が起きれば当然、加害と被害の双方が生じるわけだが、今作は(というか戦争を描いた邦画の多くは)基本的に被害側にフィーチャーした物語になる。舞台設定上それは仕方のないことだとしても、この映画で描かれるゴジラ討伐に至るまでのプロセスや、劇中でたびたび発される精神論、そこから滲み出てくる制作側の戦争観は、かつての戦争を生み出し暴力を正当化していた空気と全く同質のものである。
「ゴジラ−1.0」において、ゴジラがもたらす暴力と人間たちの抵抗の様子は、まさに戦争における「被害」の繰り返し(あるいはやり直し)として描かれる。しかし対米決戦の始まった真珠湾以降ではなく、満州事変からの約15年にわたる一連の戦争として先の大戦を考えるとき、そうした暴力を朝鮮半島や中国大陸や南洋諸島でふるってきたのは、まぎれもなく当時の日本人たちであった。大日本帝国はそうした暴力と差別を植民地主義のもとに正当化し、結果として敵も味方もあまりにも多くの命を蔑ろにしてきた。
24年3月のアカデミー賞で「視覚効果賞」をとったことからも、確かにこの映画のCG(VFX)の出来は良さそうで、洋画に比べれば相当少ない予算で作られているという。主人公たちの人物造形や服装、軍艦や戦闘機などの細かい考証も、識者が見ればかなりしっかりしているらしい。ただそうした細部を引き合いに出したり建前だけを褒めることは、結果として本質や原因から目を逸らすことに加担してはいないか。「特攻」とはまさに、その最たるものであったのに。

このように今作では肝心の「時代の空気」が描けていないどころか、むしろ現代日本から見た昭和というものを都合よく描いてしまっている。ゴジラに対する解釈違いというよりも、戦後すぐの日本の空気に対する解釈が、全く現実と異なるものになってしまっているということだ。別に歴史修正をするつもりで作ったのではないと思うけれども、一つの作品として観た結果として「ゴジラ−1.0」という物語は、戦中戦後に現実に起きたことや戦争の空気が醸成されるに至った事実を無視して、共同幻想としての昭和日本を補強するものになってしまっている。
戦争を知らないぼくたちは、教科書で習い資料館で学ぶことと同じかそれ以上に、文学や映画といった物語の力によって、戦争というものの悲惨さを自分ごととして体感してきた。日本の歴史だけでなく、世界のさまざまな地域で今も起きている戦争や虐殺についても、物語の中では同じ人として歩き、涙し、考えることができるはずだ。時が経てばどうしても直接体験した人は居なくなるし、記録したことも損なわれていくから、ぼくたちが「日本人」であろうとするならば尚更、かつての過ちも自分たちのものとして引き継いで、物語り続けなければならないのではないか。

「ゴジラ−1.0」はある意味で、2023年時点での日本の空気を体現する作品となったと思う。初代ゴジラのように原水爆の脅威と戦争の責任を突きつけるのでもなく、「シン・ゴジラ」のように震災や原発の脅威と政治の不在を問うのでもなく、自らの加害性と向き合わぬまま戦後レジームから脱却して今度こそうまくやり直すんだという虚妄に、ぴったりと寄り添ってくれる物語だからだ。
奇しくもアカデミー賞の授賞式では、あるアメリカ人が同じくステージ上に居たアジア人をあまりにもナチュラルに無視するかのような振る舞いがみられたことが炎上した。こうしたことは、本人の偏見や差別意識から来るものであろうがなかろうが、あるいは善かれと思うことですら、ある種の「日常」として無意識のうちに行われてしまうからこそ恐ろしいし、当たり前だと思い込んでいるからいつまでも社会のなかで再生産されてしまう。公の場に出た表現がその本意に関わらず何らかの意味を持ってしまうというのは、社会通念としてそうした事実があるからに他ならないし、このことは公開された映画にも当てはまる。だからこそそうした「日常」を破壊しに訪れる、本当のゴジラの物語がぼくたちには必要なのだ。
「ゴジラ−1.0」がこのままゴジラ映画として世の中に受け容れられてしまうのならば、そんな社会をそれでも生きて、抗っていくのが、本屋としてもやるべきことだと思っている。次回作のゴジラがしっかりと現実を突きつけるために訪れることを願いながら、戦争を決して許容しないことをあらためてここに表明しておく。

2024年3月11日。東京大空襲から79年、東日本大震災から13年が経った日本で。


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