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テロリスト・吉田松陰「留魂録」

「留魂録・吉田松陰」全訳・古川薫・講談社学術文庫2002年9月発行

著者は1925年生まれ、1990年「漂泊者のアリア」で直木賞受賞、下関出身で「長州歴史散歩 維新のあしおと」など多くの著書がある。

「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも、留置まし大和魂」

「十月二十五日 二十一回孟士」の署名で始まる松陰の門下生への遺言「留魂録」は処刑1日前の26日夕刻に書き上げた。留魂録は江戸獄中で半紙四つ折り19面に書かれた5,000字の文である。松陰30歳であった。

松陰は老中・間部詮勝要撃の武器供与を藩に申出、驚いた藩は野山獄に拘束する。翌年5月、安政の大獄に連座した梅田雲浜との謀議、御所への落し文の嫌疑で幕府に召喚される。

評定所の申し開きは簡単に認められた。死を覚悟で幕政批判をと意気込んだ松陰は肩透かし、その結果、公家大原重富を長州に招き反幕旗揚げと老中間部要撃計画を自供。震撼した幕府は急遽、松陰処刑を決定。松陰のミステイクである。

留魂録は16章からなる。1章は過去の自分を振り返り反省する。孟子の言葉「至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」を信じるも、なすこと能わず、自分の徳が少なかったため、誰を恨むこともないと記する。

2章は取調で、幕府に諫言できると信じた自己の失策を嘆く。取り調べの中で、一時は処刑は免れ、遠島の罪程度で済むとも考えたようである。

3章から6章までは取調に関連した内容を記する。7章は高杉晋作の質問「男子死すべきところは?」に答える形で「人は生死を度外視して、なすべきことをなす心が大切」と記する。

8章は留魂録の核心、松陰の死生観を記する。「今日死を決するの安心は四時(四季)の循環に於いて得る所あり」と言い、穀物の収穫に例えた死生観である。「10歳で死ぬ者、10歳の四季を持ち、花あり、実を残す」と言う。

「私は30歳、四季は備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずだ。それが単なるモミガラか、成熟した粟の実か、私の知る所ではない」

「諸君の中に、私の真心を憐み、受け継いでやろうという人が居るなら、まかれた種は絶えずに、穀物が実っていくのと同じ、収穫に恥じない事となろう。同志よ、このことををよく考えて欲しい」と遺言する。

9章から15章までは、水戸藩郷士堀江克之助、水戸勤皇家鮎沢伊太夫ら獄中の交友を記述。高杉晋作の名を挙げ、彼らに紹介している。優れた人物とは何処にあっても、交際すべしと門下生に伝える。

安政6年(1859年)10月27日、松陰は小伝馬上町牢刑場で処刑された。留魂録を書き上げた翌日である。

留魂録は2通あり、1通は江戸門下生吉田正伯に引き取られ、高杉晋作らに送付された。萩の門下生仲間で写本されたが、原本は所在不明となった。

もう1通は獄中の牢名主・沼崎吉五郎が預かった。兵学者松陰らしく、慎重な対応である。沼崎は福島藩士、殺人罪で投獄、獄中で松陰から孟子・孫子の講義を受けた。松陰が獄中で世話になり、最も感謝していた人物である。

沼崎はその後、三宅島に遠島となる。明治7年沼崎は江戸に戻った。放浪の末、明治9年神奈川県権令野村靖に面会、遠島の間、褌に隠し持っていた留魂録を手渡した。

野村の後述によると、「私は長州藩烈士吉田先生の同獄囚沼崎吉五郎という者です。先生は1本は郷里に送るが、届くか危ぶまれるのでこれを君に託す。出獄の日、これを長州人に渡してほしい。長州人なら誰でも良いと言われ、あなたが長州出身と聞いたのでこれを進呈する」と述べたと言う。

小さく折りたたんだ跡も痛ましく、垢じみて変色していた。囚人として隠し持った17年の年月を感じる。野村は当時の沼崎を老鄙夫(ろうひふ)と表現する。落ちぶれた老人姿だっただろう。

この原本は萩市の松陰神社資料館に展示されている。沼崎は別に「諸友に語ぐる書」というもう1通の遺書も預かっていた。未完成で正確な日付はない。留魂録の直前に書かれたものとみられる。

沼崎は留魂録を手渡すと姿を消した。野村が沼崎を引き留めて、何らの職を与えることはわけもない。松陰の遺体を引き取った飯田正伯は「沼崎吉五郎という人、至って篤志の人物にてこれ有り」と評する。

飯田正伯は軍用金調達で富豪を襲い、文久2年に捕らえれて、獄死した。一方、生き残って、政府の高官にのし上がっていく長州人に、弱者に対する惻隠の情の薄さを感じる。

安政5年当時に松下村塾に在籍した主たるメンバー30人中、明治まで生き残った者15名、自殺8名、戦死3名、討死2名、斬首1名、獄死1名と半数に上る。久坂、高杉、吉田、入江の四天王ほか、多くが途中で斃れた事実は、松陰教育の過激さを示す。

長州思想は、安倍晋三葬儀で菅義偉が弔辞で、安倍事務所の書籍に、山県有朋が伊藤博文の死を悼む歌にラインが引いてあったというエピソードを公表した。現在までこの流れは続いているのだろうか?

歴史学者・山内昌之は「歴史を知る読書」PHP新書で、松陰が「長州藩の屈辱を学べ」と頼山陽「日本外史」を教えたことは、反徳川そのもので、歴史の誤読と批判する。

歴史に事実は必要であり、大切である。しかし歴史をどう解釈するか?二者択一でなく、多様な視点の重要性を忘れてはならない。

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