見出し画像

「東映任侠映画とその時代」

「東映任侠映画とその時代」山平重樹著・講談社2023年12月発行

著者は1953年生まれ、ノンフイクション作家。フリーライターとして多くの著書がある。「最強武闘派と呼ばれた極道、元五代目山口組若頭補佐・中野組中野太郎」「力道山を刺した男・村田勝志」など。

東映任侠映画が一世を風靡し、社会現象までになった1960年代後半、戦後の高度成長を走るなか、「怒れる若者たち」が立ち上がり、「若者叛乱の時代」と言われた政治的季節を抜きにして、東映任侠映画の興隆もなかった。

東映任侠映画は、昭和38年(1963年)3月「人生劇場・飛車角」でスタート、昭和48年(1973年)1月「仁義なき戦い」で実録路線へ転換し、およそ10年間で幕を閉めた。そこで描かれたのは男の美学、任侠浪漫。生みの親が、岡田茂東京撮影所長と俊藤浩滋プロデューサー(藤純子の父)である。

本書は、「網走番外地」「昭和残侠伝」「緋牡丹博徒」「仁義なき戦い」「極道たちの妻」までのヤクザ映画とその時代背景とともに振り返る。

昭和40年(1965年)10月封切「昭和残侠伝」高倉健の花田秀次郎、池部良の風間重吉、男同士の道行きラストシーンは熱狂的なファンを生んだ。このシリーズは昭和47年(1972年)までに9本作られた。

昭和42年(1967年)明治大学学費値上げ反対から、東大医学部スト、羽田闘争が勃発、昭和43年東大、日大全共闘紛争、新宿騒乱事件。昭和44年東大安田講堂攻防戦。昭和45年3月赤軍派日航よど号事件、大阪万博開催、この年の11月、三島由紀夫・盾の会はあの三島事件を起こした。彼らは、市ヶ谷駐屯地へ向かう車の中で、「唐獅子牡丹」を歌ったという。

三島由紀夫は、昭和44年3月号「映画芸術」雑誌で、「博奕打ち 総長賭博」(昭和43年1月封切り)を絶賛した。三島は言う。

「これは何の誇張もなしに名画だと思った。何という自然な必然の糸が、各シークエンスに、緊密に、張りめぐらされている。セリフの端々に洗練が支配し、キザなところはまったくない。物語の外の世界への絶対の無関心が維持されている。しかも一人一人の登場人物の、その破倫、反抗でさえも、一定の忠実な型を守り、一つの限定された社会の様式的完成に奉仕している。何という絶対的肯定の中に、ギリギリに仕組まれた悲劇であろうか」と評した。

「仁義なき戦い」が封切られたは昭和48年(1973年)は、熊本地裁が水俣病患者側全面勝訴判決を下す。富山イタイイタイ病ら4大公害裁判は全て企業側責任が断定された。10月、第四次中東戦争勃発、石油ショック、新左翼党派内ゲバも激化。翌年昭和49年は、ルパング島から小野田寛郎元少尉帰国、8月東アジア反日武装戦線による三菱重工ビル爆破事件が発生。金脈問題で田中角栄内閣総辞職と混沌とした時代へ続く。

映画に出演した高倉健、池部良、菅原紋太、作品を作った俊藤浩滋も死去した。半世紀も前のあの時代、ケイタイもインターネットもなかった時代。

紛れもなくそこには、あの任侠映画のパワー、パッション、侠気、情念を受け入れる熱い時代があったと言える。あの時代の東映任侠映画は、その時代背景と切り離して考えることはできないだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?