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俳人尾崎放哉・死の直前8か月の寂寥

「海も暮れきる」吉村昭著・講談社文庫2011年5月発行

本書は口語自由律俳人・尾崎放哉の小説。肺結核の放哉は最後の死に場所として小豆島を目指した。大正14年8月、小豆島に到着する。

放哉が小豆島霊場58番札所・西光寺奥の院「南郷庵」の庵主として翌年4月7日、喉頭結核で死亡するまでの最期の8カ月を描いた小説である。

著者・吉村昭自身が若い頃、放哉と同様に肋膜炎から肺結核を発症、死の直前まで行った経験から、放哉に対する親近感と放哉の孤独な句に共感する。

放哉は本名・尾崎秀雄。明治17年1月、鳥取地方裁判所書記官・信三の次男として生まれた。長男は若くして亡くなり、5歳上の姉の並が居た。

地元の鳥取第一中学から東京の第一高等学校文科(英語)に進学、明治42年東京帝大法科を卒業、東洋生命に就職、大阪支店次長、本社契約課長まで出世した。

しかし酒乱の言動で会社を辞職、その後、友人の仲介で朝鮮火災海上の支配人を勤めるも同じく酒乱のため退職する。

大連で肋膜炎発症して入院、日本に帰国も、妻とも別れ、京都の一燈園に寺男として出家する。その後、各地の寺院を彷徨い、小豆島へたどり着いた。

放哉は俳誌「層雲」の有力な俳人。しかし生活力は無く、最高学府を出て、一流会社の要職を経験も職を追われ、妻にも去られ、落魄して小豆島まで流れた。

俳句の才の驕りとひがみの感情の間から放哉の孤独感が見えてくる。親族への不信感の中で、最後は寂しく、隣家の年老いた漁師とその妻に看取られ、死亡する。大正15年4月7日、42歳だった。

種田山頭火は放哉より3歳年上だが、放哉を尊敬し、小豆島の放哉の墓を2回も訪れている。

山頭火の句は教科書にも出てくる。放哉の句は失敗の人生から教科書には載り難い。だが死を直前とした孤独感、生命への凄みは感動的である。

代表的な句。
「咳をしても一人」
「入れものがない、両手でうける」
「足のうら洗えば白くなる」

死を直前にした句。
「うつろの心に、眼が二つあいている」
「肉がやせてくる、太い骨である」
「これでもう外に動かないでも死なれる」

最期の句。
「はるの山のうしろからけむりが出だした」

小説の書名となった句。
「障子開けておく、海も暮れきる」

小豆島はオリーブの島。海が明るい島である。半面、映画「二十四の瞳」の戦争の影、放哉の孤独感、無常観の島でもある。今年も来月、4月7日の命日がやってくる。

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