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爆心と環状島モデル

文:新井卓

爆心という言葉から、風が吹いてくる。
大地や海原に垂直に穿れた底なしの穴──その縁に立ち見下ろす顔に、暗がりから吹き上がってくる気流。生臭く生温かいか、あるいは冷たくよそよそしいか。それはその傷跡の古さ新しさではなく、爆心に注ぐわたしたちの眼差しの熱量によるのだろうか?

GHQ検閲下、丸木位里と赤松俊子(丸木俊)が出版した絵本『ピカドン』(ポツダム書店、1950年)にある一節「爆心地の話をつたえてくれる人は、誰もいません。」から、中心が沈み込み虚なカルデラの形状を連想する。そのイメージは、トラウマを抱える当事者、加害者、支援者の関係性、ポジショナリティのグラデーションをモデル化した、精神科医、人類学者、社会学者の宮地尚子氏による「環状島モデル」によく似ている(宮地尚子『環状島=トラウマの地政学』みすず書房、2007年ほか参照)。広島の爆心には声なき死者たちが、環状島の内海にはトラウマの水面下に沈む声なき当事者たちがいる。集合的記憶にまつわる爆心と、個々人のトラウマとしての爆心。
このように異なる場所、記憶の主体ごとに無数の爆心が存在するとして、わたしの当面の疑問は、これら複数の爆心を架橋する表現の様式が存在しうるか、ということだ。


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