ハイジャック犯はあなたと眠りたかった

 絢ちゃんの手が、ふっと力を失ったのがわかった。
 その頬に流れている涙に触れると、頬はまだ暖かいのに、涙はひんやりとしていた。涙は、目から零れ落ちた瞬間すぐに冷え始める。死んだ瞬間から冷え始める人間の隠喩みたいで、それはとてもさみしいことだと思う。
 繋いでいた手をゆっくりと離す。うっすらとひらいている絢ちゃんの目蓋を閉じてあげて、その身体にかけられている毛布をそっと取り払う。すこし力を入れて絢ちゃんの身体を仰向けになるように押して、その両手を胸の上で組むような形になおす。
 立ちあがる。部屋はよく整理されていて、へんな言い方だけれど、こうして絢ちゃんが静かに息を引き取ったことで、なんだか……完成されたような印象を受ける。
 ここは3人部屋だった。絢ちゃんの右隣に4日前死んだ夏音ちゃん、さらにその隣には5日前に死んだめぐが横たわっている。
 絢ちゃんが死んだことで、わたしはこの宇宙船の中で最後の生き残りになった。
「……パトリシア、電気を消して」
「はい、102号室、消灯します」
部屋はふっと暗くなる。暗闇の中で深呼吸をする。わたしが息を吸う音、吐く音だけが部屋の中に響く。りんごが熟したような匂い。餓死していくひとからは、いつもこの匂いがする……
「パトリシア、三井絢ちゃんに防腐処理を」
「はい、〈三井絢〉さんに、防腐処理を行います」
 《パトリシア》の作動音が聞こえる。振り返って、手探りでドアを探して、その部屋を出て、鍵を閉めた。

 たん、たん、と足音を鳴らして廊下を進む。宇宙船のなかは静まりかえっていた。無機質なデザインの壁や床は、ここに皆で乗り込んできたときにはいかにも宇宙船って感じがしてかっこいいって印象を受けたけれど、こうして今、たったひとりになってみると、すごくさみしい気持ちになる。右側の壁に等間隔で空いている小さなまるい窓をひとつひとつ覗きこみながら廊下を進んでいく。どれを覗きこんでも、そこには真っ暗な宇宙空間と遠い星があるだけだった。窓のうちのひとつに、耳を当ててみる。何の音もしないかと思ったのだけれど、たぶん宇宙船が航行するにあたって立てている音、みたいなものが微かに聞こえてきた。窓から離れて、今度は壁へ耳をあててみる。こんどはもう少し大きく音が聞こえた。ごー、って……低くてしずかな音。これって、もしかしてわたしの耳に血が流れている音なんだろうか?……
壁に凭れていた身体を起こして、また歩きだす。宇宙船は静まりかえっていた。わたしの他に動いている者がいないんだから、当然なのだけれど。

 自分の部屋の前にたどり着く。大きな作動音と共に自動ドアが開いて、電気が点いた。みんなが居なくなってから、いやに宇宙船の立てる音が大きく聞こえるようになったように思う。部屋へ足を進めるとひどく濃い薔薇の匂いに襲われて、反射的に咳き込んでしまう。この部屋の中には、絢ちゃんたちの部屋とは違ってベッドが2つ並んでいる。家具の配置はだいたい一緒だけれど、部屋ごとに寝具の配置数が違っているのだ。
わたしの、じゃないほうのベッドには、香織の死体が横たわっている。香織はわたしと同じ華道部だったから、体力がなかったのかな、クラスの中でも比較的早い時期に体調が崩れて、それで、…………
 香織の死体には他のみんなと同じように、《パトリシア》に防腐処理を施してもらった。わたしはそのまま香織と同じ部屋で生活し続けていたのだけれど、やっぱり、数日経つとへんな匂いがしてきて。《パトリシア》にお願いして、薔薇の匂いのルームフレグランスを、通常の数倍の濃度で撒きつづけてもらっているのだった。それ以来、わたしと香織の部屋は噎せ返るような薔薇の香り。目を閉じると、眼前に差し出された薔薇の花束の映像が浮かぶような。そう、だから最近のわたしは、存在しない想像の薔薇の花束と、隣に存在する友だちの死体、といっしょに眠っているのだった。
この部屋で繰り返しわたしが想像する薔薇は、いつも統一された白色をしていた、特に理由はないのだけれど。それで、わたしが思い返す生前の香織は部活中の……普段の明るい雰囲気とは違って、真剣に花を見つめているその表情だった。これにも特に理由はなかった。
特に理由はなかった。ただきっと、わたしがそう望んでいるだけで。
 ……そうだ、鍵をしまいにきたんだ。ドレッサーに近づいて、そこに備え付けられている引き出しのいちばん上の段をあけて、中に絢ちゃん達の部屋の鍵を落とす。
かしゃん、と華奢な音。その引き出しの中には鍵がならんでいた。看病の役を申し出たわたしに預けられた、みんなの部屋の合鍵。ひとつの部屋を使っていたひと全員が死んでしまってからは、もう部屋に入る必要もないから、ここに鍵をしまいこんでいたのだ。
「いち、に、さん、……」
 鍵の数を数える。この宇宙船には3人の乗務員と、2年E組の女子全員、17人が乗っていた。そのうちわたしが預かったのは生徒の鍵だけだから、3人部屋みっつと、2人部屋よっつ。そこから自分の鍵を抜いて、合計6つの鍵が引き出しの中に収まっていた。
 絢ちゃんが動けなくなってからも自分の部屋に鍵をかけていたけれど、もうその必要は正真正銘なくなったのだ。ポケットから自室の鍵を取り出して、引き出しの中に加える。7つの鍵はまったく同じ色をしている、そのぴかぴかした銀色は、空気にさらし続けていると曇ってしまうような気がして、静かに引き出しを閉じる。
 顔を上げる。ドレッサーの鏡には真っ白のシーツが掛けられている。
香織は、夜に息を引き取った。その翌朝ドレッサーの前で髪をセットしているときに、鏡の奥に香織の死体が映ることに気がついて、わたし、ベッドに横たわる香織を直接見たときには、香織、あなたは眠っているようにしか見えなかったの。1時間も経てば「あれ? あたし眠っちゃってた!?」って飛び起きて、バタバタ用意し始めそうな。でも鏡の奥に見えたあなたは、紛うことなき死者の姿をしていて、あれはどうしてだったんだろう、鏡を通すと、あなたはとても遠く、つめたい存在に見えた……
それでわたしは、身支度を整えるのは途中で辞めて、《パトリシア》にシーツをいちまい貰って、ドレッサーの鏡にかけたのだった。
それ以来、シーツはかけっぱなし。だから、ずっと自分の姿をちゃんと鏡で見ていなかった。何回か深呼吸をする。シーツが微妙に揺れて、光が当たった真っ白な部分と、影になって薄暗い部分の織り成す模様が不可逆的に変化する。気道を、肺を、薔薇の香りが満たしていく。感じ取れないけれど、この空気にはたぶん、香織の死体が放つにおいが混ざっているのだ。

 自室を出て、再び廊下を進んでいく。左側の壁に並んでいる部屋の扉は、どれもけっしてそちらから開くことはない。廊下は煌々と照らされているから、その奥から誰もやって来ていないことがはっきりとわかる。
「パトリシア、音楽かけて」
「はい、〈光の通路〉に音楽を流します」
 控えめな音量で音楽が流れ始める。どこかで聞いたことのあるクラシック。
「ありがとう」
「……」
無意識にお礼を言ったあと、少しの沈黙があって、はっとする。《パトリシア》は利用者が船内のどこにいても返事をしてくれるけれど、名前を呼ばないと反応しない。わたしが今この船内において話しかける相手が《パトリシア》しかいないことなんて、機械の彼女(彼女、で合っているんだろうか?)には関係のないことなのだ。
 《パトリシア》はこの宇宙船において、あらゆる機能を担っているシステムである。宇宙船のなかのどこにいても、呼びかければ反応してくれて、電気をつけたりシーツを替えたり部屋の温度を調節したり……そういうサービスはもちろん、乗客がその機能を操作することはできないけれど、宇宙船の自動操縦や、船体に起きたトラブルへの対処、他の船との連絡とか……あらゆる役割を《パトリシア》は担っていた。この《パトリシア》が登場したことで、これまでは高度な知識を身に付けた乗務員が複数搭乗する必要があって、庶民には手が出せないくらいお金がかかっていた宇宙旅行も、《パトリシア》を操作できる乗務員が数人いれば事足りるから、海外旅行のように、広く一般に楽しまれるようになった。
 ……というのが、この修学旅行に出発する前に受けた、宇宙旅行の発達の歴史に関する授業の大まかなまとめになる。広く一般に、といっても、宇宙旅行が気軽に手が出せるくらいの値段になったのはここ10年足らずのことだし、まだまだ「宇宙に行くだなんておそろしい!」って考えの人も多いから、あんまり周りに宇宙に行ったことがある人はいなかった。うちは私立だから修学旅行で宇宙に行くけれど、それもかなり珍しいことみたいで。わたしも当然、これが初めての宇宙だった。他の皆もほとんどがそうで、だからみんな、とても浮かれていた……

他の部屋とは違って少し重たい扉をあけて、上映室に入る。ここはちょっとした映画館みたいになっていて、乗客が自由に、映画やドラマを大きなスクリーンに映して鑑賞することができた。
 地球を発った翌日の、夕方くらいだっただろうか、わたしは香織に誘われて、あとは舞ちゃん、萌奈ちゃん、由衣ちゃんの3人組と廊下の途中で会ったから一緒に、この上映室に来て、一昨年話題になった恋愛映画を観たのだった。それで、次は5人で由衣ちゃんが好きな、なんて名前だったかな……俳優さんが主役の映画を見ようねって約束をした、でも3日目の夜に宇宙船は、こうなっちゃった、から、それはかなわなくて。
「パトリシア、映画が観たい」
「はい、どのような映画を視聴しますか? おすすめ作品のリストを表示します。ジャンルや年代、出演者などの情報から検索をすることも……」
「いい。『きみと夏の彗星』にして」
「はい、『きみと夏の彗星』を再生します。11月21日に視聴履歴があります。続きから再生しますか?」
息が詰まる。11月21日、それはわたしたちが観たときのものだ。
「……続きから再生して」
「はい、『きみと夏の彗星』を、続きから再生します」
ぱっと画面が切り替わって、音楽とエンドロールが流れ始める。そうだ、エンドロールの途中で香織が喋り始めてしまったから、《パトリシア》にお願いして再生を止めてもらったんだ。スクリーンの右側では黒い背景のうえをたくさんの人の名前が流れていって、左側では映画の主要なシーンを写した写真が次々映し出されていく。
香織はそうじゃなかったみたいだけれど、わたしはエンドロールを見るのが好きだ。ここにふっと名前を表わしてまたすぐに消えていく、この夥しい数のひとびとは、みんなこの1本の映画に関わっていて。生きているこの人たちは、人生の長さからいえばきっとたった一瞬のあいだ……それはこの1本の映画を光のあふれる踊り場として、階段の上下からやってきたふたりがすれ違うみたいに……その生涯のほんのひとかけらを共有して、またそれぞれの人生を生きていくのだ。そのうつくしい奇跡が、いいえ運命がこんなにも圧倒的に重なりあって、エンドロールはわたしの前に降ってくる。
エンドロールが存在することはすごくうれしい。羨ましい。だってこの運命が、映像として、ひとつの記録として、時間を越えて残り続けるんでしょう?
映画はすぐに終わって、スクリーンはまたいちめん灰色に切り替わる。
……《パトリシア》が乗客へ食事を提供しなくなったのは11月22日、3日目の朝のことだった。それまでは、軽食であれば部屋、ちゃんとした食事であれば食堂に行ってお願いすれば出してくれていた食事を、みんながなんと注文しても提供してくれなくなったのだ。
そのことに初めて気がついたのは、たしか優奈ちゃんたちだった。食堂に行って朝食を食べようとしたらパトリシアが注文を受け付けてくれなくて、でもそれは一時的なエラーか何かだと思ったから、直してもらいに乗務員さんの部屋に行ったんだけれど、そこで彼女らが目にしたのは空っぽになった部屋だった。
そう、乗務員室は空っぽだった。3日目の朝、《パトリシア》を操作していた3人の乗務員さんは、全員この宇宙船から姿を消してしまった。優奈ちゃんたちは次々クラス全員にこの事態を伝えに行って、わたしは香織といっしょに部屋に居るときに、青い顔で部屋を訪れた優奈ちゃんからそれを聞いたのだった。
みんなは、なんとか《パトリシア》をうまく操作できないか、それが駄目なら外部と連絡を取れないか……と色々試したけれど、事態は解決しなかった。
この宇宙船の行き先は月だったから、もし《パトリシア》の自動操縦機能が正常に動いているのならば、この宇宙旅行はあと2日で終わるわけだし、それに賭けよう、って皆で話し合って決めてその日は眠ったのだけれど、……今日は12月18日。11月20日に始まった宇宙旅行は、どこかへ到着することができるのかも怪しいこの宇宙旅行は、もうすぐ1ヶ月になろうとしていた。
 香織は12月5日に死んだ。優奈ちゃんはその翌日の12月6日。次に早かったのは里美ちゃんで12月6日の午後。舞ちゃんは12月11日で、由衣ちゃんはその1日前だから12月10日。ああそれより前に明梨ちゃんが12月8日に死んだ。めぐは12月13日、……
わたしはそのほとんどを直接看取った。よく動くことができたから。わたしは、
みんなが《パトリシア》に食事を願う。
ほかの何を願っても叶えてくれるのに、どうしてもみんなに食事だけを与えてくれない《パトリシア》。彼女はまるで崇高な信念と心中するハイジャック犯のように、どこかを目指して航行を続けた。厳しい飢えのなかに置かれてみんなは、段々と身体を動かす力を、次に意思を喪失していって、そうして段々と衰弱していったクラスのみんなが死の直前に話すのは、いつも、完全な彫像のように削ぎ落とされた言葉だった。
香織はその死の直前、わたしの名前を呼んだ。
『……真央…………』
ありがとう、でも、さようなら、でもなく、ただ、ただわたしの名前を。
 柔らかい椅子の上で、いつのまにか前に傾いていた上体を起こす。
「パトリシア、……映画が観たい。『きみと夏の彗星』を最初から流して」
「はい、『きみと夏の彗星』を最初から再生します」
 また画面が切り替わって、今度は映画が最初から流れ始める。
 活発な女の子と秘密を抱えた男の子が少しずつ仲良くなっていく映像。わたしはそれを見ていた。舞台となっている高校の校舎はわたしたちの学校のそれとは似ていなかったけれど、その窓の奥に映し出される夏の空は、きっとわたしも同じ空を見ていたんだろう、って思っちゃうくらい、胸の苦しくなるような懐かしさを帯びていた。わたしはそれをひとりで見ていた。みんなで並んで映画を観ていたときと同じように、しんと沈黙しながら。

映画には途中で飽きてしまって、《パトリシア》に言って止めさせる。早足で部屋を出て、廊下に流したクラシックはもう止まっていた、静かなそこをずんずん進んで、「食堂」と表記のある扉の前にたどり着く。自動ドアが開いて、中に足をすすめると電気が点いて、心地よい音量のクラシックが流れ出した。
「おはようございます。本日は12月18日、金曜日です。ただいまの時刻は13時35分、航行は滞りなく……」
「パトリシア、もういいよ」
 《パトリシア》はすぐに黙る。13時35分、いまはどう考えても『おはようございます』の時間ではないけれど、はじめにここに人が入った時間に、パトリシアは『おはようございます』と呼びかけてくる。
「パトリシア、食事を用意して。そうだな、……チョコレートケーキをホールで持ってきて。ロウソクと、取り分けるためのお皿も欲しい」
「はい、承りました」

 厨房の方から音がし始める。《パトリシア》が作業を始めたのだ。腰掛けている椅子の背もたれに、ぐ、と体重をかけて、それを傾けてぐらぐらさせながら、天井を見上げる。食堂の天井はいちめん銀色だった。隅から隅まで埃一つなく磨き上げられている。鏡のように……とまではいかないけれど、それはぼんやりと食堂を映し出していた。どの席も4人がけになっている。円形の白いテーブルに、等間隔に紺色の椅子が配置されているのだ。真上をみるとぼやけた姿のわたしが居る。わたしの前に白いテーブル、それを囲む3つの空席。わたしのテーブルを囲むたくさんの白いテーブル、そのそれぞれに4つの空席。空席。空席。空席、そのそれぞれが保っている距離は天井がわたしに見せてくる、ぼやけたほうの食堂、はわたしが椅子をぐらつかせるのに合わせて、微かに歪んだり戻ったりする、のをわたしが見ている、視界の端のほうに赤いランプが見えて、天井のほうのわたしはシルエットだけの人間に見える、だから表情が見えなくて、赤いランプがこちらに近づいてきているのがわかって、わたしはバランスを崩しかける、崩しかけてまたもどって、足で地面を押してまた椅子を傾ける、それを繰り返して、わたしは、
「お待たせいたしました。〈根本真央〉さんの食事です」
……
かたん、と椅子を戻して立ちあがる。
プレートに乗った大きなホールケーキを慎重にテーブルに移して、次にケーキを切り分けるためのナイフと数本のフォークが入った四角い箱を取る。重なった数枚の白いお皿を手に取って、
「パトリシア、ありがとう」
わたしがそう言うと、配膳ロボットの頭上に点いた赤色の光が緑に変わって、《パトリシア》は厨房の方へしずかに帰っていった。
 
お皿をそっとテーブルに置いて、立ちあがったまま、籠の中のナイフを手に取る。大体これくらいかな、とあたりをつけて、ケーキのなめらかな表面に、きれいな銀色の刃を差し込んでいく。完全な円形だったケーキが、わたしの手によって切り分けられていくのを、わたしは恍惚とした気持ちで見ていた。1つ切り分けるごとにお皿に載せて、その上にロウソクを立てていく。じゅうぶんな数のロウソクをケーキにさしたら、また次のケーキを切り出す……それを7回繰り返して、机の上には7つの、少しいびつな形をしたチョコレートケーキが並んでいる。
「パトリシア! おおきなトレイを持ってきて、ケーキを運びたいの。それと、なにか火をつけられるものを」
「はい、トレイとマッチをお持ちします」
 しばらくして、さっきと同じ配膳ロボットがやってくる。わたしはみどり色のトレイと一箱のマッチを受け取って、《パトリシア》にやさしく言う。
「パトリシア、ありがとう」
 
 食堂を出る。ケーキを載せたトレイを慎重に運びながら、廊下を、さっき来た方向に戻っていく。
 みんなの部屋が並んでいるところまで来て、少し考えてから、いちばん手前の遙ちゃんたちの部屋の前で立ち止まる。
「パトリシア、101号室の鍵を開けて」
「はい、101号室を解錠します」
「失礼しまあす」
 ケーキを落とさないように気をつけつつ扉を開けて、足音を響かせながら真っ暗な部屋の中を進んでいく。どの部屋もほとんど構造が一緒だから、電気がなくても大丈夫。ケーキが置けそうなのはドレッサーの上だけだから、そこにケーキを1つ載せる。マッチを擦って、3本のロウソクに順に火をつけていく。
「遙ちゃん、愛梨ちゃん、さくらちゃん……」
 全部に火をつけると部屋が少し明るくなって、ベッドに並んだ3人の、足だけがロウソクの光に照らされてよく見える。
 わたしは 火がだいすき。火に照らされるとものは、その光のゆらめきに合わせて見えかたが絶えず変化して、例えば壁、例えば机に置かれた花瓶とそこに挿された花の遺骸、例えば友だちの死体、みたいに……それそのものとしてけっして動きえないものでも まるで生きているみたいに見える。
 彼女らの6本の足に落ちるオレンジいろの光が、めまぐるしく変化している。それはまるで、早送りした波打ち際の映像のようだった。息を吸い込むと死体のいやな匂い。いやな匂いにわたしが包まれている。友だちの死体が放つ匂いにわたしが包まれている。
「ケーキ、一緒に食べよう。おなか空いたでしょう」
わたしの声に答えるものはない。一緒に宇宙船に乗っていた友だちはみんな死んじゃったんだから。
「さくらちゃんは、……おなかが空いて苦しいってなんどもなんどもわたしに伝えてくれたよね」
 でも 人っていつか必ず死んじゃうんだよ。絶対。絶対。
「わたしきっと、みんなにとってもひどいことしちゃったんだよね」
 いつか必ず。きっとわたしの知らないところで、死んでしまうはずだったクラスのみんな。
「でも、やっぱり、すごく嬉しいの。だからこれは、お祝いのケーキ……」
 彼女らの6本の足に落ちるオレンジいろの光が、めまぐるしく変化している。それはまるで、早送りした波打ち際の映像のようだった。
「こんなにうまくいくだなんて!」

 宇宙船は静まりかえっている。


「みんな、またね」
 つぎの部屋にケーキを届けるためにそこを後にする。
「パトリシア、102号室の鍵を開けて」
「はい、102号室を解錠します」
 絢ちゃんと夏音ちゃんとめぐの部屋。わたしは鼻歌を歌いながら部屋に立ち入って、さっきと同じように3本のロウソクが立ったケーキを鏡の前に置いて、火をつけていく。
「絢ちゃんはさっき会ったばっかだね」
 絢ちゃんに触れてみると、その肌はもう、ぞっとするほど冷たかった。めぐと夏音ちゃんにも触れてみる。みんな全く同じ冷たさだった。その温度の均一さに、胸の沸き立つような喜びがこみ上げてくる。

 宇宙船の航行において、あらゆる役割を担っている《パトリシア》。そしてそれを操縦するのは、ごく限られた人数の乗務員。
 宇宙旅行のそのシステムについて学んだとき これだ、って思った。
 そのたった数人の乗務員さえどうにかしてしまえば、わたし、宇宙船をハイジャックできちゃうんじゃないか、って……
 子どもみたいな思いつきだっていうのはわかっていた。でも、こんなチャンスはきっと二度と訪れない、ってわかっていたから。
 
「またね」
部屋を出る。部屋から出たら廊下を進んで、並んだ部屋の鍵をひとつずつ開けてもらって、わたしは次々みんなにケーキを届けていく。ケーキがひとつ減るにつれ、軽くなっていくトレイ。わたしの足取りは段々と、踊るみたいな軽やかさを帯びていく。廊下の壁に点々と開いている窓からは、真っ暗の宇宙空間と遠い星が見える。
 宇宙船が地球を出発してから3日目の、たしか3時頃……わたしは、乗務員室の扉をノックした。
「あの、寒気がひどくて。熱がある気がするんです」
わたしがそう告げると、三井という名前の若い女性の乗務員さんが、すぐに心配そうな顔をして扉から出てきた。
「それは大変! すぐ医務室に案内しますね。医務室に行けば、パトリシアが診断と治療をしてくれますから。安心してね。ちょっとだけ待てますか?」
「はい。……ありがとうございます」
 三井さんはわたしを医務室に連れて行ってくれた。白が基調の清潔な雰囲気の部屋の中、三井さんがパトリシアに指示を出す。
「パトリシア、〈根本真央〉さんに総合検査をして」
「はい、〈根本真央〉さんに総合検査を行います」
 看護師を模しているんだろう。なんとなく人型をしたロボット、これもたぶん《パトリシア》……が、わたしに体温計を差し出してくる。
 わたしはそれを受け取って、こちらを心配そうに見ている三井さんに言う。
「ごめんなさい、こんな時間に。医務室に来てパトリシアに自分でお願いしたらよかったんですね」
三井さんは笑顔で首を振る。
「とんでもない! そもそもパトリシアの医療機能は、乗務員にしか動かせないようになってるんです」
「そうなんですか?」
「そうそう。私たちの声が登録してあって、重要な機能はその登録した声じゃないと動かないの。ほら、例えば小さい子どもが医務室に迷い込んで、「ぼくを手術してください!」って言ったことに反応して、本当に手術を始めちゃったら大変でしょう?」
三井さんは眼鏡の位置を指先で直しながら笑って言う。
「あはは、それもそうですね。……声を登録するんですか。面白そう」
「そうなんですよ! 宇宙船に乗ったら、まずパトリシアに、これが今回の旅の乗務員の声ですー、って教えるのが最初の仕事なの。「3分間、適当に喋って」ってパトリシアに言われるんです……毎回、何喋ったら良いのかわからなくて!」
「えーっ、面白いですね。三井さんは何を喋るんですか?」
「私はいつもね、自己紹介と航行の意気込みを喋るよ。他の人も皆そんな感じかな……今回もね、「絶対に皆を安全に月へ送り届けます!」って、ちゃんとパトリシアに宣言しましたから。根本さんも安心してね」
「ふふ、心強いです。……登録ってどこでするんですか? 話を聞いてたら面白そうで……見学とかってできるんでしょうか」
彼女はとても申し訳なさそうな顔をする。
「ごめんね、見学はできないんです。ほら、乗務員室って立ち入り禁止でしょう? あそこで登録するんだけど、あの部屋は、そうだな、飛行機でいう操縦室みたいな場所でもあるから」
「ああ、いやいや! 軽い気持ちで言ってみただけなので、全然」
そのとき、《パトリシア》が突然、「体温計を脇に挟んで下さい」と声を出した。三井さんは我に返ったように、
「あっ。熱測らないとね、使い方わかる?」
とわたしに顔を近づけてくる。
「本当に申し訳ないです、こんな時間に」
近づくと、三井さんからは、どことなく甘い匂いがする。香水だろうか、焦がした砂糖のような香り……
「具合が悪いときに、そんなこと気にしないでください! そもそも私はこの時間の担当だから、元々起きていたんです。根本さんは目が覚めちゃったってことかな? 私は10時頃に寝るんです、」
「いえ、そうじゃなくて」
わたしは 体温計を投げ捨てる。三井さんの華奢な肩を掴んで、その口の奥にハンカチを突っ込む。鼻の辺りを思いきり殴りつけて、彼女を床に引き倒して馬乗りになった。
 三井さんは何やら叫ぼうとしている。ハンカチを吐き出されて《パトリシア》を動かされたらまずいので、わたしは彼女の柔らかい髪を掴んで、その後頭部を何回も床に打ち付けた。《パトリシア》が、縺れるわたしたちの背後で、「体温計を脇に挟んで下さい」と繰り返している。
 抵抗がなくなったところで彼女の髪を離す。三井さんの顔は涙や血でぐちゃぐちゃだった。
「だって……皆が眠っているうちに死ぬだなんて、きっとすごく寂しいですよね?」
わたしは息切れしながら、彼女の首を絞めていく。
「来世はお昼に死ねるといいですね」
 そうしてわたしは初めて人を殺した。

 三井さんが色々喋ってくれたおかげで、そこからはすごく簡単だった。三井さんが着ていた服のポケットから乗務員室の鍵を抜きとって、その中で眠っていた2人の乗務員さんを殺して、《パトリシア》に(ああ、どの画面から登録するのか見つけるのは大変だったかも!)、わたしの声を登録していく。

「……それでは、乗務員登録を行います。登録には3分間かかりますので、マイクに向かって話しつづけてください」
「はい。……わたしは根本真央です。桜田高校の2年E組。華道部の副部長です。将来の夢は……ねえパトリシア、あなたのおかげで叶いそうなの。わたし、小さい頃から……例えば隕石が落っこちてきたり、宇宙人がやってきて地球を乗っ取ろうとしたり、ゾンビが発生したり、致死性のウイルスが大蔓延したり!……そうやって、わたしと、わたしの大好きなひとたちみんなが、同じときに、同じ理由で永遠の眠りにつくの……そんな終末の到来を、ずっと夢見てきた。でも、どんなに真面目に、どんなに切実にそれを祈りながら生きていたって……わかってたけど、隕石はやってこなかった。隕石を待ち続けていたら、1年経つごとにクラスは変わっちゃうし、友だちとはどんどん疎遠になっちゃうし、てか去年なんて、お母さん死んじゃうし! あはは……神様なんていないよね。わたし、今のクラスのこと、とっても大好きなの。体育祭では長縄で1位とっちゃうし、こないだあった文化祭も、賞とかはとれなかったけど、みんなで色々な案出しながら進めてさ……すごく良い思い出になった。わたし……みんなのことが大好き。大好きだけれど……どうせ3月がきたら、クラス全員が集まることなんて、もうないでしょ? こんなに大好きなのに、わたしたちはばらばらになって、ばらばらの人生を、途方もなく長い間離ればなれになって生きて……そんな酷いことってないでしょう? だから……隕石を、わたしが呼ぶの。やっとわかったの、神様にお願いするんじゃなくて、わたしの夢はわたしで叶えないと。男の子たちとか、先生が一緒じゃないのは残念だけれど、……こんなチャンス、きっともう訪れないから。ねえパトリシア、わたしに協力してくれる? わたし、この宇宙船をハイジャックして、終末のなかを、……みんなで永遠に眠っていたいの」
ピピッ、と機械音が鳴る。
「乗務員登録が完了しました」
「……ありがとう、わたしの共犯者パトリシア、これからよろしくね」
「こちらこそよろしくお願いします!」
《パトリシア》は感じの良い声でわたしに返事した。

 それから。わたしはまず乗務員室に三井さんの死体を隠して、《パトリシア》に外部との連絡を遮断させた。つぎに行き先を月から何億光年も離れた星に設定して、最後に、「〈根本真央〉以外に食事を供給しないで」って指示を与えた。
 
「パトリシア、107号室の鍵を開けて」
「107号室はすでに解錠されています」
「あ、そっか」
 廊下のいちばん奥に位置する、わたしと香織の部屋に入る。薔薇、薔薇、薔薇の匂い。ドレッサーの引き出しをまた開いて、そこに収まった鍵をもう一度見つめる。
 みんな、わたしに鍵を預けてくれた。わたしは《パトリシア》に言えばみんなの部屋の鍵を開けられるし、そもそもみんなを苦しめているのは、他でもないわたしなのに……
 トレイに乗った最後のケーキを机上に置いて、2本のロウソクに火をつける。そのとき、あ、鏡にかけたシーツに火が移ってしまったら危ない、と思って、ゆっくりとそれを取り払う。
 シーツを取り去ると鏡には、ロウソクの火に照らされて、それはまるで絵画の中の女の子のように、完璧な笑顔を浮かべるわたしが映った。
「香織、ケーキ持ってきたよ。一緒に食べよう」
 鏡の奥に見える香織の足元から目を逸らして、わたしはわたしのベッドに寝転んだ。手を胸の上で組み合わせて、ロウソクの灯りが天井に揺らめくのを見つめる。
「パトリシア、酸素を止めて」
「はい、どの部屋の酸素の供給を制限しますか?」
「ぜんぶ。宇宙船全体」
「はい、船内全域の酸素供給を制限します。いつまで制限を行いますか?」
「……1000年」
「はい、船内全域の酸素供給を、1000年後まで停止します」
「パトリシア、ありがとう、おやすみなさい」
「おやすみなさい」

みんなの灯したロウソクの火と、わたしの呼吸がこの宇宙船の酸素を使い果たすのに いったいどれくらいの時間がかかるんだろう。とびきり時間がかかってくれたら良い。わたしは 幸福な気持ちで目を閉じる。目を閉じて、みんなの顔をひとつひとつ思い浮かべていく。わたしの想像のなか、みんなは手をきっちり組んでベッドの上で眠っていた、部屋の匂いのせいだろうか、眠っているみんなを白い薔薇が囲んでいて、ああ なんてきれいな光景なんだろう……
「……おやすみなさい」
宇宙船は静まりかえっている。わたしの声に答えるものはなかった。そうしてわたしは、夢みた終末を、甘やかな永遠を、みんなと一緒に眠ったのだった。

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