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屋根裏ハイツ『とおくはちかい(reprise)』について


 地下鉄卸町駅を出て、左手側のすぐ隣にはデイリーヤマザキがあって、赤と黄色の看板を見ているとだんだん口の中にベーコンエッグトーストのマヨネーズの酸味が溜まってくる。最後にここでパンを買って食べたのは三年ほど前で、その時わたしはまだ大学生だった。

 地下鉄卸町駅からせんだい演劇工房まではだいたい徒歩10分の道のりだ。県道137号から左に一本入ると、車の音が途端に遠くなって、代わりに木の根の小さな鈴虫たちの声が風に乗って届くようになる。何度も歩いた道のはずなのに、曲がる角を間違えて劇場を行き過ぎそうになり、あわてて一本引き返す。
 道とちゅうのミニストップが一件つぶれてなくなっており、知らない会社の見慣れないオフィスが建っていた。道を間違えたのもあるいはそのせいだったかもしれない。畑の雑草って抜いても抜いても知らん顔で伸びてくるけど、ミニストップを引っこ抜いて生えてきた新オフィスは白い壁に黒い屋根のシンプルな外観で、かえって以前より周囲の風景になじんでいるような印象さえあった。
 おかしな感じだ。ミニストップで買って食べたポテトの味をわたしは覚えているのに、いつの間にか建物はなくなって、新しい何かがそこにはあって、わたしの舌だけが思い出の街の中に切り取られて漂っているみたいだ。記憶の名残りをぺろぺろ舐めて生きる妖怪舌だけ。雨もないのに頬の濡れた感触があったら、それは卸町の空に浮いているわたしのおばけの舌です。きっと。

 舞台の上にはへんな形の柱とベッドとその上に寄り添うように二つ置かれたクッションと、背の低い机が一つ。感染症対策の観点から、席は一個開け。劇場空間にありがちな「きゅう」っとした感じがなくって、わたしは嬉しくなる。映画館も劇場も、いつもこれくらいの密度だったらいいのになあ。べつにこういうご時世じゃなくたって、人、そこまで密にならなくていいよ。風の通る余地はあったほうがいい。
 とかなんとか、考えているうちにいつの間にかお芝居がはじまっている。舞台上で二人の役者がぼそぼそ小さい声で話しはじめ、その内容に耳を傾けるべくわたしは自然前のめりになる。何もしなくても耳には届くんだけどよく聞こうと思ったらちゃんと耳を傾けなきゃならない絶妙な塩梅の声。そういえば客入れの音楽も前説の声も小さかった。風を通してるから時季柄鈴虫の声が吹きこんでくるんだけど、客入れと虫の鳴き声とどっちが大きいんじゃいってレベルで絞ってある。すごく音に敏感な芝居なんだな、とそこでまず思った。いやそれは音だけに限った話ではなさそうだ。照明がそっと…そっと落ちてくる。さっきまで客席と舞台は同じ明かりで照らされていたのに、いつの間にかこちらの光だけが落ちていて、お芝居が進行している。音楽ジャジャジャン!台詞ババーン!みたいな脅かしがなくて、ゆっくり静かに話しはじめる役者に合わせてだんだんこちら側の身体感覚がひらかれていくような。でもこれを人間が計算してやっているのだと思うと、ちょっと怖い……。

 役者たちのひそひそ話は続いていく。家具のありようがなんとなくしらじらしくて、借りてきたようで、そしてそれに触れる役者もおっかなびっくりで、この部屋には越して来たばかりなのかな?と思って話を聞いていると、どうやらこの部屋は仮設住宅の一室で、家主はほんの先月ここに越してきたばかりであるらしいことがわかる。すごい、なるほど、そういう演技だったのか、とそこで気がつく。
 そうだよなあ。いかにも「支給品」って感じのベッドだし机だ。家主は「トイレが綺麗」とか「風呂が新しい」とか、新居のいいところを語って聞かせてくれるんだけど、わたしはどうも話にのぼってくる古いほうの住まいのキタネートイレのタイルとかバランス釜のほうに興味をひかれてしまい、この殺風景な新居のたぶんあっちの裏手の方にあるキレイなトイレとかユニットバスに、キタネータイルとバランス釜のイメージを貼っつけて遊ぶ。古さとかキタナさって、人の気配、生活臭みたいなものでもあって、でもこの家にはそれがない。あたりまえだ出来立てだもの。家主はどうやらあまり料理をしないたちらしく、それを知ってか隣の部屋の住人が彼にお惣菜を差し入れてくれる。割り箸しか出てこない新居で、家主とその友人は貰い物の唐揚げをぱくつく。なんだろう。よどみなく過ぎていくようで、時折小骨のような違和感が「ここにあるぜ」といわんばかりに喉奥をつつく感じ。新しいものの纏う一種の居心地悪さが、この部屋をずっと覆っている。
 あらゆる古さとキタナさが濁流にもっていかれてできた更地に、草木が伸びるみたいに新しい家が建つ。丈が伸び花がつく前の、名前のつけられない緑のもやもや。名前がつく前の緑のもやもやに降り立って、ここは安全な葉っぱだろうか、羽根を休めても問題はないだろうかと検分するちいちゃい虫を眺めているような気分。そうして友人は去り、部屋の明かりは静かに落ちて、そこで十年が経過する。

 友人はマスクをしている。「すごい変わってて、」という友人の台詞から、二幕目が始まる。十年……。十年前といったらわたしは……中学生か。いや確かその時学校は卒業していたはずだから、中学生でも、高校生でもないただの宙ぶらりんなわたしがそこにいたはずだ。あれから十年……。色んなことが起こりすぎて逆に何があったのか思い出せない。ともかく十年がたち、友人たちはふたたび出会い、またそう大きくはない声で語らい始める。十年の間に彼らに起こったこと。バスケのなんか日本シリーズみたいな優勝決定戦。バスケのなんか勝ったときにできたモニュメント。新しいビルが建ち、住所が変わり、職が変わり、街にはでっかいモールが来るらしい雰囲気があり、けれどベッドだけはあの日と変わらずそこにある。にょきにょきと生え、あるいは倒れ、風は吹いて砂を散らし、散った砂はまた風のままに積もったり散ったり集まったりしながら新しい模様を地に描く。
 変わってゆくことは喜ぶべきことだろうか?
 日々世界は超スピードで変化してゆき、わたしの変化スピードは世界の変化スピードよりいくぶん遅いので、わたしはいつも半歩世界に置いていかれる。ミニストップは潰れ、新しいオフィスがどんと居を構えて、成仏できないわたしの舌は今も卸町の宙に浮いている。
 変わってゆくことは惜しむべきことだろうか?
 どうだろう。わたしの身体も一分一秒同じ身体ではない。大きく揺れて波がきて、食器棚の食器が八割くらいバリンバリンに割れてしまって、でも食器棚そのものが無事であれば、人はその棚に割れてしまった八割を補充してまた使い続けるだろう。そうしない人もいるかもしれないけれど。少なくともわたしはそうする。そしたらその元の食器二と新しい食器八の棚のありようが、わたしの家の食器棚の新しい風景になるのだ。

 鍋つかみ。

 劇の終盤に、なくしたと思われていた鍋つかみが発掘される。この鍋つかみは家主が高校生のときに誕生日プレゼントとして物ボケみたいなノリでもらった鍋つかみで、大学に入って一人暮らしをはじめ、そこで被災して仮設住宅に移って、仮説から今の家に引っ越してくるタイミングでぽろっと荷物の中から出てきたものだ。わたしはこの鍋つかみが……観劇後も頭を離れなくて……家に帰る前にうっかり出店に並んでいた鍋ぶたを買ってしまった。買ったときは「家のなべのふた壊れてるんだよな」くらいの気持ちだったのだが、今になってみるとあれは確実に屋根裏ハイツの『とおくはちかい』を観劇した余波だった。鍋ぶたて。いるか?鍋ぶた。ビニールを外してにおいをかいでみるとほんのりスゲの香りがする。二千円の鍋ぶた……。
 わりと唐突に(でもテキスト上は順当に)持ち出された鍋つかみをじっと見つめている大の男二人の構図だけでわたしはすでに大分おもしろいのだが、鍋つかみを見ながら話している会話の内容になにより心ひかれる。以下、該当箇所を戯曲より引用する。

 揺れて、家がなくなって、避難して、(仮設に)引っ越しして、(ここに)引っ越ししてっていうのはもうずっとある。
 ある、
 忘れてない、みたいなこと?
 うーん、
 一個一個すごい覚えてる、みたいな、
 うーん、
 忘れる忘れないじゃなくて、ある、
 ある、
 まだずっとあるなっていう、

 鍋つかみが家のどこかに仕舞ってある。
 持ち主は仕舞ったことすら忘れており、時たま視界に入っておやっとなるくらいの存在感でそこに「ある」。十年前に起きたことも、十年前から向こう自分の身に起きたことも、忘れるとか、忘れないとか、ことさら思い出そうとかするでもなく、空気みたいに、飲んで食ったものが血肉になって身体をぐるぐるめぐるみたいに、「ある」。最近これと似たようなことがどこかであったな、何だっけ、と考えて、友人役の男性のマスク姿にはっとなる。ああそう。それだ。コロナウイルス。
 見えないし、仕事してる時とか、何かに熱中してる時とか、それを意識しなくなる瞬間は日常の中にいくつもあるんだけど、自分が意識していないだけでそれらは当たり前に世界に「ある」し、それを当たり前と感じられるくらいにはわたしの世界は以前とありようを変えてしまった。コロナウイルスと鍋つかみじゃ深刻さがぜんぜん違うか。でも、あの日の続きを生きるわたしの世界にどうしようもなく組み込まれてしまった「何か」を、鍋つかみの上に映し見てみる。
 
 わたしが鍋つかみに「何か」を見ようとしてしかしうまくできないでいるうちに、劇は静かに閉じていく。もうじき駅前にイオンが建つから、イオンが建ったら見においでよ、そう言って二人は約束をする。未知の疫病が蔓延する世界で、果たされるんだか果たされないんだか、吹けば飛びそうなおぼろな約束。昔住んでいた仮設住宅にも再開発の手が入るらしく、そこは大きな公園になるようだ。思うに、約束が果たされるかどうかはさしたる問題ではなくて、約束が理由を連れてくることのほうによっぽど意味があるのだ、と。二人はふたたび出会うだろう。なぜなら理由ができたから。そうしてまた出会って、小さい声で再会を喜び合って、絶えず変化し続ける互いの輪郭を、指で言葉でそっとなぞり確かめるのだろう。

 劇場を出て、もんにゃりとした余韻のままに歩くわたしの足元に、アスファルトを突き抜けて伸びる丸い葉の草株。アスファルトは円錐状に隆起して、そのてっぺんからほとばしるように緑の茎がつき出している。ふと思いついてしゃがみこみ、根元から引っ張ってみるがびくともしない。次ここを訪れるときには枯れているか、それとも抜かれているか。そういえば卸町にもイオンができたという話だったか。18時の公演までまだ時間もあることだし、今はもうないミニストップの代わりにイオンのショッピングモールを冷やかしてみるのもいかもしれない。変化からいつも半歩遅れるこの足で、過去と現在のあわいの時間をそぞろに、歩く。

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