迷子の男

 男は迷っていた。目の前にはふたつの道がある。そのどちらに進むべきかをどうにも決めかねていた。しかし男は見ていた。男の兄が、さきほど右の道を通って進んでいったのだ。だから実際、男には悩む理由がなかった。男は兄を尊敬していたから、男は兄の通った道をそのまま進めばよかった。男は右の道を選んで進んだ。男はしばらく歩いてから、はて、と首をかしげた。右の道をひた進む足取りにはなんの迷いもないのに、男は卒然、「これでよいのか」という気持ちになった。しかし男はすぐそれを忘れた。男はまっとうに迷うための道しるべをいくつも持っていなかったから、男の不安は一時の気の迷いとして男の中で即座に処理された。男の歩く道はどこまでも平坦で、丘の向こうがわまでまっすぐに続いていた。だから男は迷うことなく、その道を歩き続けることができた。男は時折何かを思い出したように首をかしげながら、でもそのことは次の瞬間にはすっかり忘れて、どこまでもつづく平坦な一本道を、定規で引かれた黒鉛の線のように歩いている。

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