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何かひらめいたけど 閃いたということだけ憶えてて 何をひらめいたのか忘れてしまった でも、それを良しとする 今日は良き日 詩と写真: 漠(ばく)
パートナーのオッサンと僕の休みが合う日曜日の夜。 今夜も映画をみようかと誘ったら、オッサンは水草を買いに行きたいという。日中は家の中で過ごしていたので、少し外を歩きたい気がした。映画よりいいかも。夜の8時を過ぎていたけど、近所にある熱帯魚店へ歩いて行くことにした。 日曜の夜に限ったことではないのかもしれない。夜の熱帯魚店は、昼間とは違うなんとも言えない雰囲気がただよう。僕の頭の中では槇原敬之(マッキー)の歌が流れる。日曜のデートでスネてしまった「彼女」との熱帯魚店での思い
悲しみは力になるか。 昨日の記事で、親友を失った悲しみにふれた。理論的には分かっている。「悲しみ」は人から力を奪うけれども、周囲の人から助けとなる行動や感情を引き出す。でも、周囲にわかるように悲しみを表さなかった場合はどうなるだろう。 悲しいことがあると明るく振る舞おうとするのも、わりと自然な反応だ。でも、力を失っているのだから、1人になればガス欠でよけいに沈む。 僕は親友を失ったとき、身近な人と悲しみを共有できなかった。これはなにもゲイに限ったことではない。彼の死を知
今日は9時には寝ようと思ったら、今ちょうど9時だ。仕方がない。9時半に寝よう。 近所の人から大輪のアジサイをいただいた。パートナーのオッサンが持っていた緑色の大ぶりな花瓶にはじめて花を生けた。濃いみどり色の丸い花瓶に、薄みどり色の丸いアジサイが奇跡的にいい感じだと思った。 夕方、僕がワンコの散歩から戻ってくると、テレワークを終えたオッサンが竹原ピストルの曲を大きな音で流していた。 とかく忘れてしまいがちだけど とかく錯覚してしまいがちだけど 例えば桜やらひまわりやらが
noteを書きはじめてそろそろ2週間がたつ。今日はなにを書こうかと思って、気負っている自分に気づく。表現しようとして何かを探すのは違う気がするのだ。先にもやもやした何かがあって、それを表現するのがいいと思う。 文章を書くよりも先に、載せたい写真を自分のスマホのアルバムから探したら、今日はなぜかゴーヤを選んだ。庭になっているゴーヤだ。僕がnoteを書いてるこの2週間に、すくすくと大きく育ったのだ。 日々、慣れない仕事や試験勉強をこなしているけど、やってることが実を結ぶのだろ
時々、パートナーのオッサンとの関係がぎくしゃくする。 僕が日曜に出勤したことにオッサンが「静かに」腹を立て、この3日間ぐらいぎくしゃくしていた。日曜まで出勤になってしまったのは申し訳ないなと思うけど、前もって伝えていた事だし、1時間早く仕事を切り上げて帰ってきたんだから、こちらとしては分かってよという気持ちがある。 オッサンは機嫌を悪くすると何も話さなくなる。この3日間、家の中で始終ワイヤレスイヤホンを付けていた。僕が話しかけても実際に聞こえていない感じで。こちらは話しか
名前はパキラだったか。何年前にわが家へ来たのか分からない。5年ぐらい前かもしれない。いや、もっと前かもしれない。パートナーのオッサンが買ってきたのか、もらってきたのか分からないが、所有権はオッサンにある。 ずっと小さな鉢に植えられたままだったから、いつも小さな葉っぱが1つ2つ付いているだけだった。オッサンは完全にネグレクトしていて、肥料をあげたことは無かったと思う。時々僕が気まぐれに水をやるぐらいで生き延びてきた。栄養分を吸い尽くされた土はスカスカだった。すべての葉を落とし