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交換日記⑥ ささぶち

8月13日 笹渕

 ラブストーリーをテーマに据えるにあたって、いくつか「恋愛もの」っぽいなと思った映画やドラマを見てみました。たとえば『愛がなんだ』『窮鼠はチーズの夢を見る』とか、ドラマは長いから最後までは見れてないのですが、『逃げ恥』『東京ラブストーリー』『来世ではちゃんとします』とかです。今まで「恋愛もの」=「少女漫画」のようなイメージがあって敬遠していたのですがそんな単純なものではなく、いろんなタイプがあって面白いんですね。

 今回は、王道恋愛映画として有名な『世界の中心で、愛をさけぶ』(通称セカチュー)の映画を昨日見たので、それについて調べたことや感想を項目ごとに書いていきたいと思います。ネタバレが苦手な方はAmazonプライムなどで視聴してから読んでください。

〇基本情報

・2001年に出版された片山恭一の小説をもとに2004年に映画化。その後ドラマ化もされている。
・行定勲監督作品(『窮鼠はチーズの…』と同じ方ですね)
・主な出演:大沢たかお、柴咲コウ、長澤まさみ、森山未來などなど…
・主題歌は平井堅の「瞳をとじて」
【ざっくり内容】
律子(柴咲コウ)と朔太郎(大沢たかお)は結婚を控えていたが、突然律子が家を出てしまう。律子を追いかけ朔太郎が向かったのは香川県高松市、彼がかつて通っていた高校のある町である。そこから現代(2004年?)と高校時代(1986年)の回想が、彼の持つカセットテープに録音された亜紀(長澤まさみ)の声によって橋渡しされる。高校時代、朔太郎と亜紀は付き合っていたのだが、実は亜紀は白血病を患ており17歳の誕生日(?)に亡くなってしまっていた。亜紀のことが未だに忘れられないでいる朔太郎はそんなんで結婚ができるのか、そして律子はなぜ突然高松にやってきたのか…!?という感じです。
(森山未來さんは高校時代の朔太郎を演じています)

〇カセットテープと写真

ここからは細かい内容について言及してまいります。「セカチュー」の特徴的な点として、カセットテープでのやり取りは外せません。高校時代、朔太郎と亜紀は面と向かって言いにくいことなどをカセットテープに吹き込んで、交換日記のようにやり取りしていたのです。それは亜紀の病状が悪化し入院してからも続きます。そして結果的にそのテープは死んでしまった亜紀を生きたままの形で保存することになったのです。こんなシーンがあります。過去の亜紀の声は現代の朔太郎に目をつぶるように指示を出し、ピアノを演奏します。現代の朔太郎の目の前のピアノには誰も座っていませんが、目をつぶることであたかも本当に亜紀が目の前にいて演奏しているかのような錯覚に陥ります。
また、過去の二人は写真館で結婚写真を撮るのですが、その写真はずっと写真館に飾られ、現代の朔太郎や律子に影響を与えます。亜紀は写真を撮ろうと提案した理由について、「忘れられるのが怖い」と言っていました。『セカチュー』ではカセットテープや写真という複製物によって、過去が風化することなく現在につき出されるある種の怖さをうまく使っているように思えます。

〇『ロミオとジュリエット』の引用

『セカチュー』では何度かシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』(以下『ロミジュリ』)が引用されます。高校の文化祭で『ロミジュリ』をやることになり、亜紀がジュリエット役に決定したことから、亜紀とジュリエットが重ねられます。しかし個人的には、単純に若者の恋愛であることや最後に死が待ち受けていることなどのざっくりしたモチーフとしてしか機能していないように思いました(ちゃんと研究したわけではないので初見の印象ではありますが)。ただすごく広い見方をすると、『ロミジュリ』を引用することで、二人の「逃亡」というテーマがより強調されるのではないかと思いました。『セカチュー』では何度か、亜紀と朔太郎が親などに黙ってどこかへ行くというシーンがあります。分かりやすいのが夢島とオーストラリア(ウルル)です。
「夢島」というのは架空の無人島で(大阪港の人工島に夢洲(ゆめしま)がありますが、舞台が高松であることを踏まえると違うと考えられます。ロケ地は高松の近くにある稲毛島です。)二人は夏休みそこへデートに行きます。亜紀は病気なのでおそらく遠くへ旅行することを親に制限されていたのではないかと思われますが、無断で「夢島」に来てしまいます(このとき朔太郎はまだ病気のことを知りません)。「夢島」で二人は古いカメラを見つけます。中のフィルムを現像するとオーストラリアのウルルの写真であることが後々わかり、二人はいつかウルルへ行くことを約束します(ここでも過去のだれかの思い出が写真によって現在の二人に影響を及ぼしたわけですね)。
ウルルの方は、亜紀が入院し病状が悪化する中、朔太郎が病院から連れ出します(大胆だな~)。結局台風29号(架空の台風)により欠航になって空港まで来たものの二人は日本を出ることができません。このとき亜紀はすでに自分の死期が近いことを悟っており、病気が治ってからウルルへ行くという選択肢がないことをわかっています。
つまり、どうしようもないもの(病気/両家の対立)からの逃亡という点で『セカチュー』と『ロミジュリ』は類似しており、『ロミジュリ』の引用はその点を強化する効果があるように思います。根本的に問題を解決する力を持っていない人々にとっての「どうしようもなさ」への向き合い方、ということでしょうか。しかしどちらのカップルも逃亡によって問題を解決できたわけではありませんね。

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↑ウルル

〇アボリジニの埋葬は2回ある

『セカチュー』は高校時代の悲しいラブストーリーがピックアップされがちですが、物語の大枠は現代の時間軸で進行するその弔いの物語だと思います。特に印象的だったのが、めっちゃ墓を暴くこと(いいのかよ~?)。まず亜紀と朔太郎で死んだ校長先生の墓を暴き、遺骨を持ち帰ります(これにはいろいろ訳があるのですが割愛します)。そして最後に分かるのですが、現代朔太郎は亜紀の遺体の灰(?)をウルルに持って行き、ばらまきます(墓ほり返したってことですよね?)。ちょっとビビる展開でしたが、現代朔太郎&律子がウルルに向かうときに車に乗せてくれた現地の方の話が挿入されたので、少し納得しました。
その方曰く、オーストラリアの原住民であるアボリジニは二回埋葬するそう。一回目は肉体のため、二回目は骨のため。私もネットで調べてみたのですが、そのような埋葬方法が記載されたサイトが見つかりました。
こんなシーンがあります。写真館でかつての結婚写真を前に「亜紀のことが忘れられなくてどうしたらいいのか分からない」という旨を写真館のおじいさんに吐露すると、おじいさんは残された者にできることは「後片付け」だといいます。「後片付け」=気持ちに整理をつけて弔いを完了させること、宗教儀式の枠を超えて弔うことが必要であるってことかなと思いました。朔太郎は高校時代から現在までずっと亜紀を弔えてなかったとも、弔い続けていたとも捉えられます(それがウルルに行くことによって完了するという意味で)。骨をほり返したり長い時間を空けてもう一度弔おうとするアボリジニ的埋葬を朔太郎は実践していると言えます。その実践により今までの弔いに対する固定観念を脱臼させ、カセットテープや写真という確固たる過去の存在にとらわれることなく、ちゃんと弔いを完了できた、ということでしょうか。
ちなみにウルルは「地球のへそ」「大地のへそ」とも言われており、「世界の中心」と言われている場所で、アボリジニの聖地です。

〇その他雑記

ただ気になるのがこういうラブストーリーで悲劇的に病気を患ってしまうのは女性の方が多くないですか?最近『女が死ぬ』という短編小説が流行ってるのもあって、少し気になってしまいました。『君の膵臓を食べたい』『余命一か月の花嫁』など…。ただちゃんと調べてはいないので、また余裕があれば調べてみたいと思います。
あと分からなかったのが、なぜ主人公の名前が朔太郎なのか。結構何度も出てくるので何か意味があるとは思うのですが、朔太郎の由来は「父親が萩原朔太郎好きだから」らしいです。でもなぜ萩原朔太郎なのかは不明です。しかもその後に「あー智恵子抄の?」という返しがセットで、それは高村光太郎なので違うのですが実は智恵子抄が裏モチーフとしてあるのか?とか誤読に誤読を重ねそうになっております。分かる方がもしいれば笹渕まで教えてください。


少し長くなってしまい申し訳ございません。そして結局恋愛にフューチャーできてなくてごめんなさい。おそらくここまで読んでくださる方はいないんじゃないかと思うのですが、最後に前回の交換日記で聞かれた質問の答えたいと思います。
【質問】創作のお供について教えてください!
→音楽!耳以外は大忙しなので。絵を描くとか単純作業で脳があく時は歌詞がある好きな曲聴きますが、台本書く時とかはYouTubeでロフィヒップホップ無限に流してます。徹夜する時はエナドリ。


では私からも質問です。一目ぼれをしたことはありますか?

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