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『ユニコーンとの出会い』ショートショート7800字

【不思議なお話集①】ユニコーンとの出会い 

 7歳のとき小学2年生になっても未だ学校に馴染めずにいました。わたしにとっては閉じたいのは教科書よりも休み時間でした。業間の時間を過ごすことはやさしいものではありませんでした。
 そんなわたしにも心が躍る時間がありました。今の時代なら世間の目はもちろんのこと、大抵の親もそのようなことは許さないことでしょう。しかし当時のわたしは学校から帰ると跳ねるように近所の雑木林へと向かい、小さな秘密基地にもぐりこみ、そこで本を読んだのでした。大降りの雨のときはあきらめたような気持ちで部屋で過ごしたものです。
 雑木林に入ると空気が変わります。すっと涼しくなり肩が軽くなります。落ち葉や土を踏みしめ土の香り木の香り、梢や葉の擦れる音、虫たちの声の世界に入ると、重いランドセルをおろしても身体から離すことのできずにいた憂さから解放されていくのでした。  
 わたしが滑り込んでいた秘密基地は樹齢100年はゆうに超えていると思われる木のうろでした。ちいさなわたしは踊りかかるように木の🌳根元にしゃがみこむと、立派な根っこに手をあて、
「こんにちは、長老さん。」

と挨拶するのでした。「今日も遊びにきました。中に入らせてもらっていいですか?」樹木は返事をしませんがわたしはきっと聞いていてくれる、そんなように思っていたのでした。これを子供の無邪気というのでしょうか、それとも本当に聞いていてくれたからでしょうか。うろは日常の憂さからのシェルターであり隠れ家でしたから、あらゆる雑音、不快、警戒、不可解を遮断してくれました。重荷からの解放だけではありませんでした。リュックに詰め込んだ本を開けば、時の流れからも内側にある問題からも解き放たれたのです。樹木と本、それから異世界と一体化する時間は、過敏で傷つきがちな当時の心を癒しました。
 当時のお気に入りはといえば古典的と思われるかもしれませんが、昔話やお伽草子やファンタジーでした。現実とは異なる空想上の世界の事をファンタジーと呼ぶのであれば、昔話やお伽草子もこども向けのそれに分類されるでしょう。
 多くの子供はどうしてファンタジーが好きなのでしょうか。
現実逃避として架空空想の世界へ回避しているのでしょうか、それともわたしたちの脳が現実と想像を区別できないと言われているように、子供たちはフィクションの世界を現実だと半ば考えているのでしょうか。
 それは分かりませんが、子供時代のわたしにとっておとぎ話への関心は素直なものだったのです。小さなわたしはうろのシェルターで、おにぎりころりん、花咲じいさん、それからネバーエンディングストーリーやフェルマーの冒険、そしてハリーポッター世代の多分に漏れず魔法界のおはなしも幾度となく読みました。おそらく世界中の子供部屋やリビングで、同様のお話が子供たちを楽しませていたことでしょう。
 アンデルセンやグリムという世界的な童話も勿論好きでした。白鳥の湖のおはなしが特に大好きでした。湖が出てくる昔話はとても多いですね。白鳥の湖、白鳥にされた王子、みにくいアヒルの子、金の斧。湖に憧れがあるからか、それとも白鳥の純粋な美しさのためなのか、当時考えることもありませんでしたが、大人になりあの日のことを思い出す度、わたしは湖畔や神秘性をはらむ動物への憧憬について考えるようになっています。
         ※
 小学2年のある秋晴れの日のことです。
その日はいつものうろがどうしてか見つかりませんでした。わたしはいつものように疲労を覚えながら学校から帰宅しランドセルをおろしてから、玄関へと急ぎました。頭の中はすでに秘密基地での時間でいっぱいで、そこで読むことになる物語の続きのことを考えていました。外は秋の陽光がまぶしいくらいでしたが、母が台所から出てきて傘を差してきました。「今日天気予報は、夕方から雨よ。早めに返ってくるのよ。」という母の言葉に、まさか、と思ったのを記憶しています。「折り畳み傘がリュックに入ってる」と言ってからわたしは雑木林へと急ぎました。「木🌳が守ってくれるから」とは心の中で言いました。
 しかし長老の木がちっとも見つかりません。ヘンデルの森にでも迷い込んだのでしょうか、それとも魔王の森でしょうか、いつどこでどのように、いつもの景色から道がそれたのか見当がつきませんでしたし、いつもとは森が違って見えました。 

 こどものわたしは訝しみながらも恐怖や不安といった感情はほとんどわいていませんでした。夜とお手洗いに一人でもいけなかったのですけれど。
 ふぅうとため息をついたり、あたりを見回したり、落ち葉を踏みしめ踏みしめ歩きました。葉っぱの音がサクサクカラカラと聞こえたのを覚えていますから、秋だったのでしょう。こうして黄色や緑、茶色の世界を歩いていますとつんと土のにおいがたちこめてきました。雨が降る前のあの匂いです。湿った空気が頬を触ってから5分ほど過ぎた頃でしょうか、雨の代わりにあたりに霧がもわっと姿を現しました。とても急な景色の変化でした。森の天気は変わりやすいといいますが、自然界の気まぐれにわたしは雑木林で遭遇したのでした。
 あたりはまたたくまに別世界となり、まるで動画のワンシーンのように時を待たずけぶる白い幕がおりてくる自然現象の不思議に、小さなわたしは驚きました。冒険小説の世界にでも入り込んだような気持になりましたが、わたしは顔を横に振り、幻想の世界に入り込んでしまうのを振り切ろうとしました。「早く帰ってくるのよ」と母の声が心の中でこだましたのです。

 どうしてあのとき不安や恐怖が先行しなかったのか今でも不思議でならないが、当時のわたしは白い霧のなかを感嘆しつつ瞠目しながら一歩一歩ゆっくりと歩を進めたのでした。しばらくして目の前に一本の大木がふっと現れました現れた。霧で視界がききませんから、本当にふっと現れたようでした。目の前にぬっとあらわれた大木の根元には大きなうろがありました。当時のわたしなら3人はゆうに入る大きさでした。わたしはうろに入ってみたくなりました。寝そべることもできる新しい秘密基地となるかもしれないとも思いました。わっくわくとしゃがんだのですがそれはうろではありませんでした。少し残念な気がしましたが、まぶしいぐらいの白い光が輝いていてみえました。まるで別世界へ入り口のトンネルのようでした。わたしは子供らしい好奇心のまま、四つん這いになり樹木のトンネルをくぐり抜けたのでした。
 5mも10mもあるように思われたのは気持ちの問題ですが、実際に2m近くはあったのだと思います。通り抜けたときの達成感はおおきいものでした。トンネルの先は今でいうなればCGの世界とでもいうのでしょうか、目の前に広がっていたのは青緑色の湖で、水色とエメラルドの世界でした。
 「わぁきれい」と心が開いたのを今でも記憶しています。
 湖上をけぶるように立ちこめる白い霧のために、湖の向こう岸は木々の輪郭がぼやけ、水面に浮かんで見えました。ゆらゆらと湖面が揺れると、木々も波立つのが面白くずっと眺めていたい気になりわたしはしゃがりこみました。そおしてうたた寝をはじめたのでした。
 「すやすやとかわいい寝顔。みくちゃん、早く帰ってくるのよ」と母の声がしたような気がしてはっと目が覚めました。
 わたしは立ち上げり、土を払ってきた道を帰ろうとしました。

が、おかしい、振り返った景色が変わっていたのでした。くぐり抜けたはずの大木はそこになく、森の中とは思えないほど澄んでいます。
わたしは夢かもしれないと思いながら辺りを見回しましてから、湖畔に目を戻しました。湖はやはりきれいで柔らかいのでした。水面からけぶる白い霧はゆらゆらとゆれています。
 わたしは落ちていた小さな石を拾い上げて、すぃと湖水の方へほおり投げてみました。波が生まれたら、湖畔に移る木はどうなるのか、と思ったのです。石は湖に吸い寄せられ、すっと消えていきました。波紋の小さなさざ波が生じ、木々もあわせて揺れました。音も石といっしょに湖のなかに消えるのか、そんなことを思ったほどあたりは静かでした。水面には波紋が次々と生まれていました。
 ここからは、わたしの記憶が正しいのかどうか、また夢なのか現実なのかを今でも確信をもてないでいることです。
 わたしがまるで生きているような湖畔の水面を眺めていると、波紋の弧に沿うのようにして白い霧の中から、一頭の白い馬がすっと現れたのでした。
「おうまさん?」
わたしの声に湖が揺れたように思いましたが、真っ白な馬が湖上にひずめを乗せたのでした。白い馬はこちらの声に応じるようにじっとわたしを見ていました。奥深いやさしさと静けさと、それから天界を思わせるような澄んだ瞳でした。
 白馬の額には一本の角のような光の渦が生えていました。
「わかった、ユニコーンさん!」
わたしは高ぶりました。
 ユニコーンは微笑しました。微笑したように思ったというほうが正確なのでしょう。それから心に声が届きました。「人間のかわいいお嬢さん、お会いできてうれしいです。地上の音が変わりはじめていますね。大きな雑音の中に、幾つもの透き通るように澄んだ魂の音が心地よく聞こえてきます。わたしたちは、そんな音のするこの地上にまた戻ってこようかと思案中なのです。」
「あ、あの、ユニコーンさんですか?」
誰かと言葉をかわすことも億劫がっていたわたしが、いつになくはきはきとし聞いたのでした。ユニコーンの瞳は柔らかく和やかでした。
「人間はコーン、つまり角だと呼びますがそうではありません。これは第3の目から放たれる光の渦ですよ。」
「そのおでこについてるのは角じゃないのですか?光、ですか?」

「えぇ。あなたがたのなかにも再び第3の目を取り戻しつつある人間がひとり、またひとり増えてきています。何万年ぶりでしょうか。
人は、許し愛し尊重し合う方法を見いだし、
われこそはと切磋琢磨するものは幸、
かたや敵とみなすや蹴り落とし貶め罠にかけてきました。
共有することを怠るものもあらわれました。奪い続け、奪われ続け、増悪が
つのりました。
人の心に悲しみと苦しみが増え、地上の奏でる不協和音に、わたしたち一族はもはや耐えきれず、一度は地上を去りましたが、
再びこの地に戻ってこようと考えているのです。」
わたしは即座に言いました。
「ここにきてもいいことないよ。
学校、つまらないよ。ママはつまらないなら楽しくするのが想像力って言ってた。だから想像の世界で学校に来ていないって想像するんだけど、目の前にうつるものに引きずられてきた。
 登下校は暑いよ。冬は寒くて凍えそうだよ。家では、あぁしなさい、こうしなさいって言われるばかり。それに地球は環境破壊が進んで、汚れてばかりだよ。きれいな水ももうどこにもないの。ホッキョクグマは増えているみたいだけど、人間の出した化学物質は地球の果てでも見つかるの。
ここにきてもいいことないよ。」
ユニコーンは相変わらずのやさしい目でした。
「この景色をきれいと思ったのは、本当ではないのですか?
その手にある書を楽しいと思うのは、本当ではないのですか?
木のうろは温かく包んでくれていませんでしたか?
それは本当ではないのですか?
それらは地上でのたからものです。
この星ほど、彩な多様性に富む場所はありませんよ。
瑞々しく豊かな水音が聞こえる星は他にありません。
だからもう一度、わたしたち一族はこの地におりて人々と進化の道を歩みたいと考えているのです。
 浄化と癒しの力をわたしたちはもっています。
一方で人間は、あらゆることを可能にする想像力をもっています。
共にこの地をこの宇宙にふたつとない美しい星にしましょう。さぁ、かわいらしいお嬢さん、
今日地上の様子を見に来て、
こうして人間のあなたと会えたのはわたしの幸運でもあります。」
「わたしに会えたことが、幸運?」
わたしはその後数年、この言葉を何度も何度も心の中で繰り返したのを憶えている。とても嬉しかったのだろう。
「なぜってあなたの音は、とってもきれい。今日の邂逅の思い出に、あなたの額の奥深くにも眠っている第3の目を開いてあげましょう。出会いが人を変えることもあるのです。それがときにユニコーンであることもあるのです。」
小さなわたしは喜んでいいのかどうかすぐにはわからずにいました。
「わたしにも角・・じゃなくて光の渦が、角が生えたみたいにおでこから出るのですか?痛くないですか?」

ユニコーンは穏やかに続けた。
「大丈夫ですよ。わたしたちの目には見えても人間の目には見えませんから。
第3の目は、智慧の目。お嬢さん自身の背中にまるで空を自在に飛べる大きな翼がはえたかのように、万物の瞬間瞬間を高い所から俯瞰しあるがままに観察できる目。静かに無執着の心で観察する明晰な目。
きっと、学校が今ほどいやじゃなくなりますよ。いいところもよくみえるからです。お父さんのきついお? ̄ツハも意図するところがよく見えます。お母さんが望んだ時にいつもぎゅっとしてくれるわけではなくても今までほど寂しくはありませんよ。お母さまがお嬢さんを深く深く愛していることが見えるからです。
暗くもなく、時の流れに抗うこともなく、拒絶せず、ないがしろにせず、お嬢さんのまわりで起こることを美しい見方で理解することができるでしょう。
お嬢さんが望めば学校をより実りをもたらす場所に変えていくこともできるのです。
変革の果の実る新しい種をまき、すでに芽が出ているものには水を注ぐことができるでしょう。
お嬢さんは想像することをなんでも可能としていくことができる人間ですから。手があり足があり脳と臓腑をもちます。情緒と理知を解することのできます。
そしてあなたはとてもきれいな音がする人間ですから。」
「音、ですか_わたしから音が聞こえるの?どんな音?」
「とってもきれいな音ですよ。例えれば、この美しい湖を音楽にしたような。
地上で長い間根をはってきた慣習にも刻々と変わりゆく世の常識にも染まらない音。
愛と平和と許容の豊かさに強く共鳴する音。
素直な心の喜びから行動を続けることができれば、
幾万の歓びを生む可能性を秘めた音。
そんな音を出す人間がこの地に増えたのなら、わたしたちはここに戻ってきて、今度こそ、この母なる大地で真の繁栄の道をともに歩けるでしょう。そのとき、きっとまたお会いしましょう。お嬢さん、さぁ、じきに霧がまたでますから、お帰りなさい。」
そういうとユニコーンはフッと消えて、わたしはその場に取り残されました。白い霧が立ち上がる湖畔は相変わらず奇麗でした。
それからは霧がたちこめたように記憶が不明瞭ですが、家路についたのは確かで「あぁおかえり、みく、心配したのよ。」と母が抱き着いてきたことははっきりと覚えています。
 あれからまた毎日のように林に行きましたが、あのトンネルがある巨木もなく、また湖を見つけることもできませんでした。
 ユニコーンのことは中学に上がるころには思い出すこともなくなりました。空想にふけりがちな子供だったわたしは、本の想像の世界を夢に見たのだ考えたのでした。夢だと自分に言い聞かせていたのかもしれません。それに、3年生の終わり頃にはもうあの林に行くこともなくなりました。友達ができたのです。
 また、あのうろの中に身体を丸めなくても、自分の部屋のベッドに座って本を開くだけで、あの温かく包まれたような安心した心境にいなれるようになったのです。
それは第三の目が開眼したためでしょうか、それともただ人間として成長したためでしょうか。
 その後、ユニコーンのことを刻銘に思い出したのは、10年以上たった19歳のときのある夏の日のでした。山手線の広告にあった展示会のお知らせのポスターに目がとまったときあのときの記憶が甦ったのです。
それは東山魁夷氏の絵でした。

東山魁夷


白馬が湖畔にいて、水色にエメラルドグリーンの配色はあのときの情景とよく似ていました。魁夷さんももしかしたらあそこに行ったのだろうか、とふと思わずにはいられませんでしたが、 長野県の御射鹿池がモデルであるそうです。
 その夏大学の下宿先から実家帰ると、堰切ったように雑木林に向かいました。もしかしたら湖に行けるかもしれない、と思ったのです。しかし、あのうろのある木も無論湖畔も見ることはできませんでした。雑木林そのものが住宅街に代わっていたのでした。林の代わりに、煉瓦を敷き詰めた道、オレンジ色の屋根、白い壁の戸建てが立ち並んでいたのです。

夢なのだろうか、それとも不思議に出会ったのでしょうか、

もしかしたらユニコーンが語ったように人には見えない光の渦でできた角が、わたしにもあるのでしょうか?
 
 あの頃の記憶が時空を超えてよみがえるにつれて、わたしは第三の目について調べるようになりました。
 お釈迦様の額のほくろのようなものである白毫、観音様にもついています。
インドでの古い宗教では第三の目を開花させるためにお日様を凝視するという修行があったそうです。目がつぶれる人もたくさんいたそうです。
 インドの神々には額には必ず目のようなものやなにがしかの印があります。ヴィシュヌ、ガネーシャ、ラクシュミー・・
 西欧圏でも第三の目についての記述を見つけることは容易でした。デカルトは松果体を『魂の座』とよび第三の目として、精神と肉体がここで相互作用をするとしたそうですし、エジプト文明においても松ぼっくりを松果体を表したものであり第3の目としてみなされていたそうです。
 ヨーガでは第6のチャクラとして知られ、直感や知性に関係しているとい考えられており、アージュニヤーとも呼ばれています。知覚する、知る、という意味であるそうです。
 現代科学ではどうでしょうか。松果体はメラトニン分泌に関与していると考えられています。第3の目が科学的に研究されているかどうかは知りませんが、物事を達観しまるで天空から地を観るがごとく起こることを省察する能力がとある脳領域で特定され始め出していて、マインドフルな瞑想などの実践で活性化されるそうです。
 鳥類などでは直接的に太陽光の受容体があり概日リズムに関わっている、朝日を取り込む生活をすることで、幸福物質たるセロトニンが分泌される、など第3の目に関連する情報は枚挙にいとまがありませんが、第3の目が開花したのか否か、またユニコーンと出会ったことでさえも真偽を確かめる術がわたしにはありません。

 しかし確かにわたしはあの遭遇以来学校がそれほどいやではなくなっていました。一月もたつ頃になると学校でも心地のよく過ごせるようになりました。きっと目の前ではたいして変わりのないことが繰り広げられていたのだと思います。ただ面白いとみられる目が育ったのだと思います。目が。
 
  今わたしは学校の教師になるべく大学で教職課程を履修しています。
「学校をより良い場にできる」
そう語ったユニコーンの声がどこかに残っていたのかもしれません。
大学生のわたしは相変わらずファンタジーが好きですし、この夏長野に行くことを計画中です。


(これは、創作です。次回をお楽しみに☆彡)

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