馬楽の時間 111

馬術部物語
 日蓮仏法を勉強し「不二」の哲理があることを知る。
「二にして二に非ず」。確かに二つだが、二つとするには余りに関係性が深い。じゃあ一つかと言うと一つではない。
 例えば「依正不二(えしょうふに)」。正は自分。依は自分を取り巻く全ての環境。これが不二だと説く。環境によって左右されると考えるのが普通。自分がこんなんなのは環境のせいだ。親が悪い、世間が悪い。ところが不二の考え方からすると、自分から環境に影響を与え環境を変えられると言う。そうなると残念ながら世間ばかりのせいにできない。
 馬術の究極は「人馬一体」。超一流の人馬にして到達できる境地。だから凡人には関係ない。目指さない。考えるだけ無駄と決めていた。じゃあ何を目指すのか?上手ってなんだ?目的が見つからない。
 人馬一体の4文字をながめていた時「あっ、人馬一体って変だ。ケンタウルスじゃあないだろ。人馬不二じゃあないだろうか?」。深く思索。
 人馬不二の方がしっくりくる。乗馬は人が上に乗るので、自分は未熟なくせに馬より偉くなったように思いがち。自分が調教しなきゃと思う。主従関係ははっきりさせろとか言う。
 不二の考えでいくと、人が上で馬が下とはならない。互いに影響を与え合う関係。時には馬から教えてもらったり助けてもらったり。こちらも全知全能を振り絞って接する。乗せてもらうんだから、最大の敬意をはらって世話させてもらう。乗りっぱなしで、誰かに世話させるなどと傲慢にはなれない。人と馬の関係がぐんぐん深くなったように思う。

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