神様を信じますか

私は無神論者を名乗る。
理由がある。

母方の家系はある新興宗教の熱心な信者が殆どで、
父方はなんと寺の住職の直系家族なのだ。

特に熱心な母方の祖父母の影響が多分にあり、
私には宗教を熱心に信じる“人"の方に
何故か脅威を感じることがあった。

私は保育園を中退している。
だから幼い頃は、母方の祖父母の家で経本などを暗記するための時間を設けられていた。

そうはっきり言われたわけではないけれど
三世帯が暮らす祖父母の家へ預けられると
決まった時間にお経を唱える時間があって、
何となくそれに私も倣わなければと思っていた。

ソラで少し唱えられるようになると
祖父母も叔母も、そして母も喜んでいた。

私が高熱にうなされたり、霜焼けになったりすると
決まって祖父母がお経を唱えながら私の無事を祷ってくれていた。
そういう優しくて美しい思い出もある。

だけど私は、気付いたのだ。

小学5年生から卒業まで続いた学校でのいじめ。
独りぼっちで、1番長い時間を同じ学び舎で過ごす彼女たちとの平穏をいくら願っても、祖父母や母が信じる神様は助けてはくれない。
独りぼっちにしないではくれないのだ。
友だちを与えてはくれない。

心はもしかすると休まるのかも知れない。
“唱えている”という自分の何かしらの行いに安堵するのかも知れない。

でも私は、別のクラスや別の学校の友だちとの繋がりに救われたし、母の理解に救われたし、時々学校を休むことを許してくれることに救われた。

お経を唱え、神に願うよりも
我が身を以て考え、行動する事にこそ変容はあったのだ。

学校嫌いな私でも、大学まで卒業したのだが、
大学生活で1番の学びは
友人のように接してくれた社会学の先生との関わりの中で得たと思う。

その恩師との会話の中で印象に残っているやり取りがある。

「どうしてこんなに生きづらいのかを追究したくて、私は大学まで来ました。」

「人は皆、何かに縋って生きているからね。
 それが他者であったり、趣味であったり、
 はたまた宗教であったり。
 人は、自分の外側に縋れる"なにか"を求め、
 救いを求めているんだ。
 そうしないと生きていけないんだよ。」

どうして私たちは、自分を自分の為だけに生かしていくことができないのか。

それは、人間は社会性を持つ生きものだから。
他者との、外部との関わりなしには成り立たない生活だから。

"自分"のことなのに、"他者"との間で
その"自分"を確かな存在に近づけていこうとする。
不安定で、脆くて、
だけど、だからこそ、
自分が経験し得るとイマジネーションするチカラ、
痛みや傷をイマジネーションするチカラが養われ、
優しさは外へ向けられていく。

神様は、自分自身を見つめる時間を委ねる
イコール"時間"の総称なのかも知れない。

だから私は無神論者なのだ。

神様ではなく、人を信じたい。
人が持っているチカラこそ、無限の可能性を持ち
どんなに小さなチカラでも、
どんなに些細な出来事でも、
誰かを救い、誰かを護り、
誰かのナニカに繋がっている、と。

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