7人の彼氏

今から25年くらい前の話。
バブル崩壊の余波が地方まで来るのに時間差があるようで、私の幼少期にはまだバブリーな大人がたくさん居たのを覚えている。

私が5歳になる前だった、と思う。

私の母には全盛期(かどうかは私の主観)にほぼ同時期に7人の彼氏が居た。

身一つでそれまでの家を出て、車に揺られて割とすぐに着いたアパートのドアを開けると、小さなダンボールとカーペットが敷いてある以外に何もない部屋があった。

そこがそれから恐らく4年程、私と母が2人で暮らすことになる部屋。

初日は母が車から降ろしてきた毛布を2人でかぶって、枕もない敷布団もない部屋で眠った。
貧しくて、何度も電気やガスが止まったけど、私たち母娘は形容しようのない繋がりで団結し合って乗り越えた。

朝も夜もなく働く母の為に、私は保育園に通うのをやめた。
母が「私と居られる時間がなかったから、預けたくなかった」と今でも言うけど、本当は保育園に払う保育料を滞らせる事が怖かったんだと思う。
私も母と居たかったから別に悲しくも寂しくもなかった、と覚えている限りでは思う。

でも日中、母は大体眠っている。
まだ20代半ばだった母。
働き詰めの暮らしで空いた時間なら眠りたくもなる。私は母が眠る横で無言で絵本を読み、人形遊びをして過ごした。この時の私の遊び友だちは頭の中に居たから、不自由しなかった。

母子家庭時代の強烈な記憶はまだまだ残っているけど、今日はここまで。

タイトルの話に戻ると、後に水曜日の彼氏だった人が、今の私の父。継父である。

曜日が決まっていたのは2人。
あと2人、不定期で数ヶ月に1日程、神戸や福岡からたまに訪ねてくる母より若いお兄さん。
それ以外の3人は連絡がきた時にタイミングが合えば食事したりドライブするおじさん。

人の顔と名前を覚えるのが特技になったのは多分このせいだと思う。

間違えて違うニックネームの人に「○○さん」なんて呼び間違えたら大変だからだ。
私と母は2人で1つ、2人で一人前だから。

皆、大人の付き合いだったと思うし、真剣交際を
意識していたのは多分2人。
それでも、小さな子どもに名前を呼び間違えられた大人が見せる表情は、それはそれはとても切ない表情。
呼び間違えたのは私なのに、私は私にとても腹が立ったし、子ども心ながらに人を傷付けた事にとても傷付いた。
だから彼らと過ごす時には注意を怠らないように過ごした。
公園に連れて行ってもらっても、ドライブの車の中で歌を歌って楽しくしていても。

そのうちに、彼らの中の3人が他の曜日や土日を多く過ごすようになった。
母は何度となく2人で眠る前に私に訊いた。
「誰がお父さんだと嬉しい?」と。
私はその時時で、母の顔色に合わせて答えを選んだ。

母の全盛期の思い出は、私の幼少期にとっても、とてつもなく大きな脳腫瘍のように記憶として頭の中に居座っている。
もちろん、その後の私の価値観にも影響を与えたし、今の私をかたちづくっている。

1990年代の末、バブルの余韻がぎりぎり残っていた

街自体が "遺物" のような田舎町の、本当にあったバブリーでファンキーな私の母の話。

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