言論の限界 ~自由はあるのか?

言論の自由は重要です。
ではその自由の段階はどうなのでしょう?
段階とは、
 ①自分の思っていることを発言しても誰からも発言を止められない
 ②自分の発言が誰かに届き影響を与える。
もちろん明らかな誹謗中傷などを発言として取り扱う事を前提には記載して
いません。

①の段階では日本では過去に特高(特別高等警察)、外国でも秘密警察の
様な組織に、その時の権力者/階層に強制的に封じ込められてはならない事
だとおもいます。
今の日本ではこのレベルの言論の自由はあるでしょう。
しかし、②に関して言うと、考察が必要かと推測します。

②において、結局言論とは自分の意思を反映させる社会としたい。という事
ではないでしょうか?
昔であれば自分で印刷物などを作り、不特定多数の人たちに
配布し自分の意見を伝えて他者の行動を変えようとする。
それが個人レベルから集団になり大きな力を持つ場合もある。
どの程度の大きさであるとかの議論もあるでしょうが、少なくとも
その集団の人たちが自己肯定できるレベル -「自分たちの意見は人々に
受け入れられている。」という事でしょうか。

現代では個人の言論は簡単に拡散できます。
個人でなくても大企業/報道機関であっても現代では個人と同じ手法で
拡散できます。自分たちの既得力(新聞とかテレビとか)を持ちながら。

個人と同じ手法を用いる大企業/報道機関の拡散方法の方が今では各個人への
到達度、単なる情報という記号ではなく各個人への浸透度が高いと
思われます。

具体的にはSNSを使用した大企業/報道機関の意思伝達は個人へ届き大きな
影響を与える様になってきていると思います。
言論の自由ではありますが、私は柔らかな、真綿で包み込むような
プロパガンダと感じます。

当然、誰それを殺害せよ。どこどこを襲撃せよ。などといったある意味わかりやすい手法ではなく、それなりの文章に紛れ込ませて、なんとなく醸成
する手法。
これ怖いですね。

特に有名人という名目で括られる方々そして更にそのような批判を受けなければいけない、まさに受けなければいけない政治家に対するもの。

政治家に対してはモノ言う事こそ我々の使命。と思っているのでしょうね。

安倍前首相が亡くなられました。
まだ背景はわかりませんが、犯人の動機にこの使命感という名の醸成された
雰囲気が影響しているのだとしたら、果たして言論の自由とは何なので
しょうか?

私たち一般人にできることはこの後の情報を待ち、正しく判断すること
です。
しかしこの情報も送り手の意思によるものなのですが。。

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