今日のエッセイ「自分で自分を愛すことは空想で寂しさを埋めることではない。そして、『愛』と『寂しさ』を別物として切り離せないとAI時代に乗っていけない」

人類の大発見!!!
すごいことに
気づいてしまった!!!


今日のエッセイ
「自分で自分を愛すことは空想で寂しさを埋めることではない。そして、『愛』と『寂しさ』を別物として切り離せないとAI時代に乗っていけない」


※本当はもっと細かく書きたい。
この結論に至るまでに、ものすごく細かい無数のステップがあった。でも順を追って説明するには時間がいる。だけど大事な気づきだから伝えたい。よってとりあえず、メモ程度に書く。




私は、「愛されない」と「寂しい」を
定義づけして分けていなかった。

だから、私は、
自分で自分を満たそう・幸せにしよう、
自分で自分を愛してあげよう、と心に決めるたびに、
架空の他者を頭の中で作り出し、そいつと共に生きた。

だけどそれでは、
「自分で」自分を満たす・愛すになっていない。
なぜなら、自分の想像で生み出したとはいえ、
愛の源泉は、どこまで行こうと、
やっぱり「自分以外」だからだ。

(これ、意味わかるだろうか?この話が意識や哲学の世界の話であると感覚でわかる人々が、次のAIの時代に乗っていける人々だ。そうか、だから、1人1人、自分と向き合わなきゃいけないし、1人1人、受容され分かち合える社会でなきゃ
人類はAIと共に進化しない!未来に行けない!)
(こりゃ急がねば、世界が分断するぞ)
(早く、なんとかせねば)


そもそも自分は自分のままで完璧であるとするならなぜ満たす必要があるのか?

満たされてないことは、「欠陥がある」ということなのか?

「満たせない」は「欠陥」とイコールではないし、
「寂しい」は「愛されない」とイコールではない。

ゆえに「十分に愛されていても、寂しい思いはする」し、
「自分で自分を満たせなくても、あなたは完全体である」


私はこれを、ちゃんとは理解していなかった。
だから苦しかったんだ。
でもそしたら今度は、
別の苦しみと対面する。一瞬で。
「この寂しさも背負う」ってことだ。

でも背負えば自分で変えられる範囲の話になる。
だから、自分の思考や感情を言葉で「分け」る、(「分か」る)、事が人類としての成長である、と私は考える。

※この思考の言語化と感情の定義づけが、人間の成長においていかに大事か、も
私なりの持論がある!しかも強い!
だからこの辺りもいずれ語っていきたい。

あぁ、生きる時間がない。

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