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クレデンザ1926×78rpmの邂逅 #03~1956年1月27日を巡るW.A.モーツァルトとE.クライバー~

これまで20世紀前半を代表するウィーン出身の巨匠指揮者、エーリヒ・クライバー(Erich Kleiber、1890-1956)について何回か綴っている。
私が最も敬愛する指揮者のひとり。
50代以下の音楽ファンには「カルロス・クライバーの父親」と言った方が通りがいいかもしれない。

彼のキャリアや音楽表現様式、そして時代、特に政治との関わりについては以前の記事を参照していただければ幸いである。

即物主義=ザッハリッヒ

息子クライバーが父の反対を押し切って、指揮者の道を志したことはよく知られている。
エーリヒが息子の行く末を案じたのは、自らの波乱万丈の、時代に翻弄された指揮者人生を顧みてのことだったように推察される。

両大戦間の1920年代、ヨーロッパ随一の爛熟した芸術都市であったベルリン。その国立歌劇場音楽総監督の地位にあったエーリヒは、1933年にナチス政権が樹立されると、自分と家族の身の危険を察知して、ドイツを脱出、南米随一のオペラハウス、アルゼンチン・ブエノスアイレスの「テアトロ・コロン」のドイツ・オペラ専任指揮者に就任した。
終戦後の1954年、東ベルリン地区となった古巣のベルリン国立歌劇場音楽総監督に復帰するも、東ドイツ共産党政府と折り合いが悪く、1年で辞任。
1956年にはウィーン・フィルハーモニーの戦後初のアメリカ・ツアーの指揮者として帯同する予定だったが、それは実現することなく、1956年1月27日、65歳という長いとは言えない人生を終えることとなる。

1956年1月27日、この日はクライバーが愛し、数多くの名演も残したモーツァルトの生誕200年、まさにその当日であった。

繰り返しになるが、クライバーの作る音楽は当時のモードであった即物主義(ザッハリッヒ)的解釈によるものであった。
W.フルトヴェングラーH.クナッパーツブッシュという何人かの大指揮者を除けば、クライバーに限らず、O.クレンペラーC.クラウスF.ライナーG.セルK.ベーム、そしてH.V.カラヤンに至るまで、皆、即物主義の影響下にあった。
しかし、下地は同じであっても、その上に塗り重ねられるものが違ってくれば、出来上がった音楽の風合いも異なる。

クライバーの音楽は爽快で淀みがなく、キッパリとした白ワイン、もしくは大吟醸の飲み口のようだ。雑味はない。
しかし、ほんの少しだけ、意図的でない、彼が生来から持っているちょっとしたウィーン気質的な雅が加わる。ここに”陶酔”が加わると、同じウィーン出身で4歳年下のC.クラウスの音楽に近くなるのだろう。
同じ時代に同じようなレパートリーを誇った二人の”K”のちょっとしたニュアンスの違い。
それを楽しめるのは大いなる喜びだ。

”闘士”クライバー

クライバーはナチス・ドイツとも反目したし、東ドイツ政府とも反目した。ヨーロッパの伝統に生きながらも、どこか”闘士”の趣きがある。
そして、それは彼の音楽にも言えるような思うのは気のせいだろうか・・・?

【ターンテーブル動画】

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モーツァルトと赤い糸で結ばれたエーリヒ・クライバーの思い出に、1927年、手兵ベルリン・シュターツカペレを指揮して録音したモーツァルトの『交響曲第39番 変ホ長調 K.543』の78rpmをクレデンザで。


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