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ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ、23歳のイエス 『マタイ受難曲』

史上最高のドイツ・リート歌手、宗教曲歌手

日付変わって昨日になってしまったが、5月18日はドイツの音楽史上、いや世界の音楽史上を代表するバス・バリトン、特にドイツ・リートと宗教曲に偉大な足跡を残したディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(Dietrich Fischer-Dieskau, 1925年5月28日 - 2012年5月18日)9回忌にあたる。

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「もうそんなに経ったのか・・・」なのか、「まだそんなに経っていなかったのか・・・」は、人それぞれだと思う。
私事で言えば最近彼のモノラル時代、つまり20代後半に録音された音盤を聴く機会があったので、改めてフィッシャー=ディースカウのハイ・バリトンに深く感じ入っていたところであった。
特に、その後何度となく録音を残すことになるシューベルトの連作歌曲集『冬の旅』の1回目録音(ライブ録音除く・1955年1月13-14日録音・ピアノ伴奏は彼最大の理解者であったジェラルド・ムーア)の若々しくも思慮深く、多種多様な声の成分を内包した歌声、そして美しいドイツ語に改めて魅了されている。

さて、そんなフィッシャー=ディースカウの宗教声楽曲分野での足跡、業績を辿ればバッハ宗教声楽曲(ミサ曲、受難曲、教会カンタータ・・・)にいくつもの傑作録音を残していることに当然目と耳が向く。
中でも、バッハの『マタイ受難曲』でのイエス役は、彼を凌駕するものはいない、と断言しても、多くの人に賛同を得ていただけるであろう。
音盤史上に燦然と輝くカール・リヒターの1回目の『マタイ受難曲』はもちろんのこと、バッハ研究家や評論家から相当な批判を浴びたリヒター3回目、最後の録音、そして同じく批判の格好の的となったヘルベルト・フォン・カラヤンのそれでも、フィッシャー=ディースカウはイエスを「聴かせて」くれている。
特にリヒターの3回目の録音では、ピリオド楽器、奏法という新しい、しかも確実に力強い波が襲来し、その演奏観念が過去の遺物として葬り去られようとしていたカール・リヒターとまるで心中するかのように、イエスを演じた彼の心持ちを察すると、単にそれを非難をする人たちと気持ちをひとつにすることが、私にはできない。
これも『マタイ受難曲』だ(そもそも、『マタイ受難曲』の演奏、録音、それがプロであろうアマチュアであろうと、傾聴に値しないものなどないのではないか? というのが私の持論)。

23歳のイエス

フィッシャー=ディースカウのイエスの録音は、1959年のリヒター盤以前に残されている。
1949年4月9日と10日、聖週間に入る直前の土曜日と日曜日(棕櫚の日曜日)、ベルリン放送のホールでライブ・レコーディングされたものだ。
指揮はフリッツ・レーマン

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この年にベルリン・モテット合唱団を自ら結成し、ベルリンで戦後ドイツのバッハ宗教声楽曲の復興に取り組もうとしていたレーマンが、当時のドイツ音楽の最高峰のバッハ歌手たちを集め、ベルリン放送交響楽団(現ベルリン・ドイツ・交響楽団)他を率いて行った演奏会での実況録音。
クレジットは以下の通り。

Voice [Evangelist] – Helmut Krebs
Voice [Jesus] – Dietrich Fischer-Dieskau

Soprano Vocals – Elfride Trötschel
Alto Vocals – Diana Eutrati
Bass Vocals – Friedrich Haertel

Choir – Boys Choir Of St. Hedwig's Cathedral
Chorus – Chorus Of The Berlin Radio

Harpsichord – Silvia Kind
Organ – Paul Hoffmann
Orchestra – Orchestra Of The Berlin Radio

Conductor – Fritz Lehmann

そして、それまでの録音(例えば、W.メンゲルベルクやG.ラミン盤)が、いくつかのナンバーを省略した不完全な全曲録音だったのに対し、このレーマン盤が史上初『マタイ受難曲』完全録音盤となった。

この演奏会の後、1950年代に入り、リヒターがテレフンケンからドイツ・グラモフォンの古楽部門アルヒーフに移籍し、『マタイ受難曲』をリリースする前までは、レーマンがアルヒーフにバッハのカンタータや『クリスマス・オラトリオ』を録音していた。

しかし、1956年3月30日、聖金曜日、レーマンはミュンヘンで奇しくも『マタイ受難曲』公演の第一部を終え、楽屋で休憩中に急逝。享年51歳。
録音途中であった『クリスマス・オラトリオ』は、第5部と第6部がレーマンによる録音とならなかった。

さて、そんなレーマンの1949年の『マタイ受難曲』のイエス役に大抜擢されたのが23歳のフィッシャー=ディースカウであり、ライブ録音ではあるが結果的にこれが彼のデビュー盤となった。

【ターンテーブル動画】

今回はこの音盤のフランス・オリジナル、Les Discophiles Français盤から、第11曲:レジタティーヴォを。

「最後の晩餐」で、イエスはユダの裏切りを予告し、「取って食べなさい。これは私の体である。」「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、新しい契約の血である。」と弟子たちに聖餐のパンと葡萄酒を分け与える場面だ。

念のため歌詞と対訳を記しておく。

Nr.11 Rezitativ

EVANGELIST:
Er antesortete und sprach:

JESUS:
Der mit der Hand mit mir in die Schüssel 
tauchet, der wird mich verraten.Des Menschen 
Sohn gehet zwar dahin, wie von ihm geschrieben 
stehet;doch wehe dem Menschen,durch welchen des 
Menschen Sohn verraten wird! Es wäre ihm besser, daß 
derselbige Mensch noch nie geboren wäre.

EVANGELIST:
Da antwortete Judas, der ihn verriet ,
und sprach:

JUDAS:
Bin ichs, Rabbi?

EVANGELIST:
Er sprach zu ihm:

JESUS:
Du sagests.

EVANGELIST:
Da sie aber asen, nahm Jesus das Brot, 
dankete und brachs, und gabs den Jüngern und sprach:

JESUS:
Nehmet, esset, das ist mein Leib.

EVANGELIST:
Und er nahm den Kelch und dankete, 
gabihnen den und sprach:

JESUS:
Trinket alle daraus; das ist mein Blut des 
neuen Testaments, welches vergossen wird für viele
zur Vergebung der Sünden. Ich sage euch: Ich werde 
von nun an nicht mehr von diesem
Gewächs des Weinstocks trinken bis an den Tag,da ichs neu 
trinken werde mit euch in meines Vaters Reich.
第 11 曲 レチタティーヴォ

福音史家:
イエスはお答えになった。

イエス:
わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたし を裏切る。
人の子は聖書に書いてあるとおりに、去って行く。
だが、人の子を裏切るその者は不幸だ!
生まれなかった方が、その者のためによかった。

福音史家:
イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで
言った。

ユダ:
ラビ(先生)、私ですか?

福音史家:
イエスは言われた。

イエス:
あなたが言った通りである。

福音史家:
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、
それを裂き、弟子たちに与えて言われた。

イエス:
取って食べなさい。これは私の体である。

福音史家:
また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、
彼らに渡して言われた。

イエス:
皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるよ
うに、多くの人のために流されるわたしの血、新しい
契約の血である、言っておくが、わたしの父の国であ
なたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの
実から作ったものを飲むことは決してあるまい。

フリッツ・レーマン、そしてカール・リステンパルト、1949年~1950年代のベルリンのバッハ

なお、フィッシャー=ディースカウは、レーマンと同時期にベルリンにてバッハ宗教音楽の復興、なかんずく教会カンタータの放送録音プロジェクト(1949-1952)に勤しんでいたカール・リステンパルトにも大々的に起用(29曲中16曲)され、それは現在、優秀なモノラル録音で聴くこともできる。

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レーマンとリステンパルト。
戦後まだ間もない「復興」という旗印の下、日々の生活の苦しさにもがきながらも、バッハの音楽に救いや希望を求めていたであろう西ベルリン、そして西ドイツ国民にとって、この2人が描くバッハの宗教声楽曲はきっと一点、いや二点の灯火だったのではなかろうか?
戦後から壁が築かれる頃までの西ベルリンに想いを馳せると、バッハの作品に限らず、この「陸の孤島」で音楽が果たした役割について考えざるを得ない。

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