見出し画像

クレデンザ1926×78rpmの邂逅 #87~レオ・ブレッヒ/べルリン・シュターツカペレ ワーグナー『ローエングリ』前奏曲

ベルリン国立歌劇場

1742年12月7日に開場し、約280年の歴史を誇るドイツの超一流歌劇場、ベルリン国立歌劇場(ベルリン・シュターツオーパー)。またの名を劇場が面していた大通りに因んでウンター・デン・リンデン劇場と呼ばれるこのオペラハウスは、ドレスデンのそれ(ゼンパーオーパー)、バイエルン国立歌劇場と並び、ドイツを代表するオペラの殿堂だ。
当然、その歴史の中でこのオペラハウスの音楽的責任者=音楽総監督も時代時代の名だたる指揮者が歴任してきた。
特に1892年、カール・ムックが就任した後の音楽総監督の系譜を見ると圧倒される。

1892-1912 カール・ムック
1899-1913 リヒャルト・シュトラウス
1913-1920 レオ・ブレッヒ
1923-1934 エーリヒ・クライバー
1935-1936 クレメンス・クラウス
1939-1945 ヘルベルト・フォン・カラヤン
1948-1951 ヨーゼフ・カイルベルト
1954-1955 エーリヒ・クライバー
1955-1962 フランツ・コンヴィチュニー
1964-1990 オトマール・スウィトナー
1992-現在 ダニエル・バレンボイム

第2次大戦前後、ナチス政権樹立後とドイツ敗戦、そして東西ドイツ分裂時代は社会主義国、東ドイツ(東ベルリン)所管となった時代の約そ55年間、「音楽と政治」というドイツ特有の問題と向き合わざるを得なかったベルリン国立歌劇場。
「その黄金時代はいつだったのか?」と尋ねられれば、ある人は、「まさに今、バレンボイムの時代だ」という人も多かろう。事実その通りなのかもしれない。
しかし、先ほどの音楽総監督の系譜を眺めれば、私などは「それはリヒャルト・シュトラウスからエーリッヒ・クライバーまでの35年間」と断言したくなってしまう。まさにベルリンがパリに勝るとも劣らない、ヨーロッパ最大の芸術都市と言われ、モードの最先端を走っていた時代だ。
シュトラウスとクライバーについては、様々な記述があり、歴史的評価も定まっているが、この二人の間に名前を連ねるレオ・ブレッヒについて、皆様はどれだけご存知であろうか?

レオ・ブレッヒ

レオ・ブレッヒ(Leo Blech, 1871年4月21日 アーヘン - 1958年8月25日 ベルリン)はドイツの作曲家であり指揮者。
地元アーヘンで指揮者としてのキャリアをスタートさせ、1899年にプラハに移り、プラハ・ドイツ歌劇場の指揮者を務めた。
1906年にはベルリン宮廷歌劇場(現ベルリン国立歌劇場)の指揮者に任命され、1913年音楽総監督に昇進し、20年までその任にあった。
その後、エーリヒ・クライバー時代にもベルリン国立歌劇場に復帰してベルリンに留まった。

そんなブレッヒはユダヤ系であった。
にも拘らず、ナチス政権になってもベルリンに留まり歌劇場で指揮をした。何故か?
これは歌劇場の首席文芸部員であったハインツ・ティーチェン(ナチス政権下でバイロイト音楽祭の音楽監督でもあった指揮者)が、当時国立歌劇場を統括していたナチスNo.2のヘルマン・ゲーリングに懇願し、ゲーリングが計らったため、と言われている。
一方、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー率いるベルリン・フィルハーモニーは、ゲーリングのライバル(天敵)でプロパガンダの天才、ヨーゼフ・ゲッベルスが管轄していた。
ゲーリングの計らいは、このことと何か関係があるのだろうか?

しかし1937年になると、さすがにブレッヒは解任を余儀なくされ、ラトビアのリガ国立歌劇場監督に転出した。
1940年にラトビアがソ連に占領されると、ブレッヒはモスクワやレニングラードに客演して大成功を収めた。
1941年にドイツ軍がリガに侵攻し、ブレッヒは危機にさらされたが、ここでもティーチェンの仲介によって、スウェーデンへの亡命に成功した。
そして、かねてから要請されていたストックホルム王立歌劇場楽長に就任し、この劇場の発展に寄与した。

1949年にドイツに帰国して、ベルリン市立歌劇場(現在のベルリン・ドイツ・オペラ)で活躍、1953年に難聴の悪化により引退。
1958年にベルリンにて永眠した。

政治的配慮、策略、権謀術数があったことは確かだが、ブレッヒの指揮者、特にドイツ・オペラの解釈者としての実力がなければ、ユダヤ系でありながら第三帝国での地位を担保されることはなかったであろう。
ブレッヒはオーケストラ録音に数多くの制約があったアコースティック録音時代、既にレコーディング活動を行っており、1926年、電気録音時代になるとエレクト―ラと専属契約を結び、ベルリン・シュターツカペレとワーグナーを中心に数多くのレコーディングを行っている。

リヒャルト・シュトラウス~レオ・ブレッヒ~エーリヒ・クライバーの流れがそのままブレッヒの音楽的傾向を明示してる。
新古典主義ザハリッヒなその音楽解釈は100年近く経過した今聴いても古さを感じさせない。

【ターンテーブル動画】

なかなか市場に顔を見せないブレッヒの78rpmだが、彼の音楽性を端的に表したようなワーグナー歌劇『ローエングリン』第一幕前奏曲を最近手に入れた(お伝えしておくが、決して高価な買い物ではなかった)。
録音データを見つけることはできなかったが、恐らくブレッヒがエレクト―ラと契約をした1926年、もしくはその1,2年後までには録音されたものであろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?