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クレデンザ1926×78rpmの邂逅 #59~カール・シューリヒト/ベルリン・フィルハーモニー、1941年の『エロイカ』

6大巨匠指揮者+1

前回の「note」のオットー・クレンペラーのベートーヴェン『エグモント』序曲(1926年録音)の稿でも触れた、というよりこのシリーズで何度も名前が出てくる1920年代~30年代にかけて、ドイツ・オーストリアで活躍し、歴史に名を残し、そして翻弄された6人の指揮者を「巨匠指揮者時代の指揮者」と呼んでいる。
すなわち、ベルリンでしのぎを削っていたブルーノ・ヴァルター(Bruno Walter, 1876/9/15 - 1962/2/17)、オットー・クレンペラー(Otto Klemperer, 1885/5/14 - 1973/7/6)、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー (Wilhelm Furtwängler, 1886/01/25 - 1954/11/30)、エーリヒ・クライバー(Erich Kleiber, 1890/8/5 - 1956/1/27)の4人、そしてミュンヘン、ウィーンを本拠としていたハンス・クナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch, 1888/3/12 - 1965/10/25)、ウィーンの若き帝王クレメンス・クラウス(Clemens Krauss, 1893/3/31 - 1954/5/16)である。
この6人はいずれも両大戦間の時代、ヨーロッパの音楽中心地であったベルリン、ウィーン、そしてミュンヘンで高い地位を保って指揮活動をしていたので、名実ともに歴史的に「巨匠指揮者」と呼ぶことに何の疑問も差し込まれない。
ただここにもう一人、同時代に生を受け、ドイツを中心に活動していたにもかかわらず、その国際的評価が第二次大戦後になってから高まった「遅咲きの巨匠」とも言うべきマエストロを加えることも躊躇しない。カール・シューリヒト(Carl Schuricht, 1880/7/3 - 1967/1/7)、その人だ。

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カール・シューリヒトの受容

生年と没年をご覧いただければ分かるように、ヴァルターを除けば、シューリヒトが一番年長で、しかもクレンペラーを除けば亡くなったのも他の5人より遅い。86歳の長寿を全うしている。
ただ両大戦間、シューリヒトの活動の中心は市の音楽総監督を務めていたヴィースバーデンで、ベルリン・フィルを初めて指揮したのは1921年、41歳の時、ウィーン・フィルとは1934年が初めての顔合わせで、音楽の中心地に進出したのが他の巨匠たちと比較すると遅かった。
しかし、戦後、1946年に再開されたザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを指揮し、聴衆からもオーケストラからも絶賛され、しばらくしてからウィーン・フィルとの蜜月関係がスタートする。
そして、モーツァルト生誕200年のその日、1956年1月27日にクライバーが亡くなると、彼が同行する予定だったウィーン・フィル戦後初の北米大陸ツアーの指揮者に、アンドレ・クリュイタンスとともに選ばれ、ツアーを大成功に導いた。

遅咲きの巨匠には他の6人とは異なるキャリアの様相がある。それは若い頃の僅かな時期を除き、歌劇場での仕事をしていない、つまりオペラを振っていない。当時としては大変珍しいことである。

そんなシューリヒトの音楽性を一言で語るのはとても難しいように思う。生前彼を絶賛していたある評論家は、「フルトヴェングラーはディオニソス的、シューリヒトはアポロ的」というステレオ・タイプな表現をしていたが、そんな簡単な言葉で括れるようなものでは決してない。
もちろん、シューリヒトの作り出す音楽は速めのテンポで、スマートに進行していくが、それが古典主義的、即物主義的な音楽観によるものなのか否かが、クライバーなどと比較するとよく分からない、というのが正直なところ。。
シューリヒト本人は「私からロマン派という言葉を取り除いたら何が残るでしょうか?」と言っているくらいだから、それが決してフルトヴェングラーのように表に顔を出すものではないが、その核心にロマンの火がしっかりと灯っていて、それが影となって表面化している、といった感じだろうか?

モーツァルト、ベートーヴェン、ブルックナーなどは実に古典的な端正な音楽運びをしているように思うが、ブラームスになると少しばかり事情が異なり、音の揺らぎや濃淡のつけ方に「おやっ」と思わせる工夫の跡が見い出せる。

コスモポリタン

また、彼はエルネスト・アンセルメの勧めもあり、戦時中スイスに逃れ、戦後は定住している。
そして、パリ音楽院管弦楽団フランス国立放送管弦楽団など、フランスを代表するオーケストラも頻繁に指揮し、レコーディングも数多く残している。パリ音楽院管弦楽団と完成させた「ベートーヴェン交響曲全集」はその代表例だろう。
しかし、相手がパリであろうとウィーン、ベルリンであろうと、そして放送用録音を数多く残したシュトゥッツガルト放送交響楽団であろうとも、その音楽性がオーケストラや時代によって変化することが稀なのも、シューリヒトの特徴だろう。

シューリヒトはコスモポリタンだった。

【ターンテーブル動画】

パリ音楽院管弦楽団との全集録音以外にも、ウィーン・フィルやベルリン・フィルとのライブ録音、シュトッツガルト放送交響楽団との放送用録音など、シューリヒトが残した録音の中で、多くのテイクが存在しているベートーヴェン『交響曲第3番 変ホ長調 作品55≪英雄≫』

名称未設定のデザイン (3)

今回はその中で、最も古いもの、1941年ベルリン・フィルと行ったセッション録音の78rpmをクレデンザ蓄音機で。
この録音はドイツ・グラモフォンで行われたが、手元にある盤はドイツの巨大企業、シーメンスがラジオ放送局用にプロダクトしていたレーベル・シリーズ「SEIMENS SPEZIAL」からリリースされもの。


前述したように後の『英雄』と大きな違いがあるわけではない。
強いて言えば、第二次世界大戦に突入したドイツの帝都でこの録音が行われた時の、シューリヒトやオーケストラ・メンバーの心持ちは如何様であったか?という想像が、少しばかり聴き手に働く、ということだろうか。


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