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『決定盤』という言葉の脆弱性

レコード芸術、特にクラシック音楽を巡る要注意ワードに『決定盤』がある。

「特にクラシック音楽」としたのは、このジャンルの音楽の多くが自作自演ではなく、作曲家が書いた楽譜を基に演奏家が解釈し、表現するケースがほとんどで、単に「作品の良さ」を堪能したり、評価したりするだけではなく、演奏家自身の「解釈」や「音そのもの」、そして「テクニック」を味わい、同じ作品でも色々な演奏を聴く(聴ける)楽しみ、選択が、他のジャンル(ジャズのスタンダードなどの幾つかの例外を除き)と比較して断然多いからだ。

例えばザ・ビートルズのある1曲を「曲はいいけど、演奏は…」と、区別して語る人は殆どいないだろう。

そういう意味では、クラシック音楽は表現の多様性が生命線のはずだが、何故か昔から「●●●(作品名)の決定盤」とか「●●●のレコード ベスト3」といった評論(表現)や雑誌の特集が後を絶たない。

もう購読しなくなって30年以上経つが、その典型が『レコード芸術』だった(今のレコ芸がどうなのかは全く知らない)。

「ネタが尽きたのだろう」と思わざるを得ない名盤ランキング的な企画。
月評担当者を引っ張り出して投票させ、その合計点でランキングを決定する。
しかもそれを「新●●●●」とか言って、5年後ぐらいにまた同じような企画をする。
そんな企画・内容で、月刊誌としてはかなり割高な価格で販売し続ける。

ソフト産業がシュリンクし、広告出稿先がネットへ推移していくていく中、メーカーやCDレコード店からの出稿が見込めないので、コスト回収のため販売価格を上げざるを得ないという負のスパイラル。

私が高校生の頃、「現代指揮者ベスト10」みたいな企画があり、先述のようなやり方で指揮者をランキングした号があった。
その時、私が尊敬する音楽評論家の大木正興氏が、「月評(交響曲)の担当者なので、投票する義務があることは分からないわけではないが、自分が演奏会なりレコードなりで知り得ている指揮者はほんの一部に過ぎず、ランク付けなどできるわけはない。10人の名前は挙げるが、それに1位〜10位の順位を付けることだけはどうしてもできない。そこは譲れない…」といった趣旨をお話しされ、大木氏のページのみ順位なしで10名が羅列されていたのを、今でもよく覚えている。

とても立派な態度表明だった。

さて、そもそも「決定盤」という言い方は、それがレコード会社、評論家、音楽ファン、誰からのものであろうとも、一定の根拠に基づいて「これを聴いておけば大丈夫」的な意味合いで使われてきたような気がする。

それが名の通った評論家の言葉、あるいはその評論家が「決定盤」と言ってきた他の盤が、自分の好みに合うことが多かった、となればそのお墨付きの影響力は絶大。安心して出費できるというもの。

その典型的存在が、音楽評論家の宇野功芳氏だった。

宇野氏のファンは多かった。
彼の評論に感銘を受け、彼が絶賛した音盤やアーティストを自分も好きになる、というファンは後を絶たなかった。
その激アツな文章、一刀両断的表現が読む者を鼓舞し、のめり込ませる。
特に作曲家で言えばブルックナーとモーツァルト、指揮者で言えばクナッパーツブッシュ、シューリヒト、ムラヴィンスキーに対する彼の思いは相当熱かった。
その思いを御旗として、ファンは安心してそれらの演奏に胸躍り、レコード会社はこれらの作曲家や指揮者の音盤をリリースすることになれば、宇野氏にライナーノーツを依頼する。
システムとしては大変よくできている。

それが悪いというわけではない。

ただし、彼の文章に頻発する「僕は」という主語、そして「この曲のレコードのベスト3…云々」「ブルックナーの交響曲の演奏スタイルはひとつしかない」といった「決めつけ」が、果たして評論というレベルに達していたか?と言えば大きな疑問が残る。
評論というよりは、「その作曲家や指揮者を愛する者を代表した感想文」と言ったら、各方面からお叱りを頂戴することになるだろうか?

そして「この曲のレコードはこれが一番」という、まさに決定盤的思考が、結果として音楽の多様性を貶めることに繋がっていたのではなかろうか?

こうした「決定盤」という考え方には、当然バックボーンがある。

それはレコード1枚の価値が、現在よりも驚くほど高かったSP盤時代、LP盤初期時代に、レコードという贅沢品を買うにはそれなりの覚悟が必要だった、という事情だ。

家計(月収)と音盤1枚(音楽1曲)の歴史的変遷については、以前この「note」に記したことがある。

ある盤を買って聴いてみたら、全然良いと思わなかった、というリスクを最小限に留めなくては、家計が立ち行かなくなる。
同じ曲を違ったアーティストの盤で聴き比べて楽しむ、といった現在では当たり前、それこそがクラシック音楽を音盤で聴く喜び、という状況など作り出せる時代ではなかった。

だから買い物を失敗しないための、何らかの指針、ガイド、お墨付きが必要だったわけだ。

そしてその風潮は、日本でクラシック音楽をSP盤と蓄音機で楽しむという文化が生まれた時代、かの野村胡堂(あらゑびす)が作り上げた。

その代表的著作が、その名も『名曲決定盤』である。
その中公文庫版は、現在でも多くのSP盤愛好家に読まれ、資料的価値も少なからずある。

ただし、その著作はその時代の要請で生まれたものであり、現在の音楽受容、鑑賞方法に当てはめてみると、そこには相当な無理がある、と私には思える。

サブスク時代。

毎月1,000円弱で過去も含め、世に出てきた音楽のほとんどを聴き放題できる現代。

「音盤購入費が家計に占める割合」なんという概念自体が存在しない。
聴き比べなど当たり前の昨今。

それを「音楽の鑑賞ではなく消費」と揶揄したり、「1曲1枚の価値が軽んじられている」と嘆き、「昔は…」と言い出す愛好家もいる。

音盤を「ジャケットやライナーなども含め、パッケージとしての総合的嗜好品」と捉え、その価値を量る人も多い。そう言う私自身もそうだ。

ただ、技術や流通の進歩によって、音楽を聴くことが気軽になり、選択肢が飛躍的に増えること自体は、賞賛されるべきことではないか?

要はその気軽さに相まって、音楽を聴くことに対しての真摯な気持ちやありがたさを軽んじることなく、ブレなければいいだけのことに思える。

逆に先ほど言ったように、そういう時代背景を踏まえた上で、『決定盤』という流布の仕方、され方(個人が「これが私の決定盤」と言うのは何ら構わない)は、音楽の多様性を貶めることに繋がっていると強く思う。

公の場での「ブルックナーの演奏スタイルはひとつしかない」などという発言は、浅はか以外の何物でもない。
「フルトヴェングラー、カラヤンの演奏がブルックナー的ではない」と言うほど、彼の音楽の懐は浅くない。包容力がある。

そもそもこの雑文を書こうと思ったのは、長年、私がブルックナーやクナッパーツブッシュ、シューリヒトが好きだ、と言うと、「でしたら宇野先生に影響を受けられたのですね」と大いなる誤解を受けてきたこと、そして先日Twitterで、とあるピアニストのブラームス作品集が(ただ)「好きだ」と呟いたら、「いいね」をいただいた上で、「間奏曲集における対位法技法の表現に関してはグレン・グールドに優る演奏は無いと断言できましょう。」というリツイート(70代男性)に、少しばかり違和感を覚えたことにある。

更にこの4月からSP盤が商売道具になって、以前にも増して、レコード文化について考える機会が多くなったから、ということも最後に付け加えておく。

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