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78rpmはともだち #6 ~K.クラウス ヨーゼフ・シュトラウス『天体の音楽』~

1948年にLPが発売される以前の音楽鑑賞ソフト(音盤)であった78rpmについて綴るシリーズ第6弾。
前回までで78rpmとともだちになる術については、ほとんど語らせていただいた。
そして、78rpmを購入して聴く、という私の楽しみの中心にいる演奏家、特に指揮者がエーリヒ・クライバーとクレメンス・クラウスであることもお伝えした。2人の残した78rpmをいろいろと聴きたくなってしまうのだ。
クライバーについては「番外編」で詳しくお伝えしたので、今回はクラウスについて。

クレメンス・クラウス

クレメンス・ハインリヒ・クラウス(Clemens Heinrich Krauss, 1893年3月31日 - 1954年5月16日)。
ウィーン宮廷歌劇場のソロ・バレリーナの私生児(父はウィーンの資産家と言われている)として生まれたクラウスは、10歳でウィーン少年合唱団に入団。
ウィーン音楽院で学んだ後、リガ、ニュルンベルク、シュテッティン、グラーツ、フランクフルトなど各地の歌劇場で研鑽を積んだ。
そして、1929年にフランツ・シャルクの後任としてウィーン国立歌劇場総監督、さらに翌30年にはヴィルヘルム・フルトヴェングラーの後任としてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任し、”音楽の都”の総帥に登り詰めた。
因みにウィーン・フィルは1933年にクラウスが辞任した後、現在まで常任指揮者を置いていないので、クラウスが”最後の常任指揮者”である。

ウィーンを去った後は、いずれもナチスと確執があったベルリン国立歌劇場のエーリヒ・クライバー、バイエルン国立歌劇場のハンス・クナッパーツブッシュの後任として音楽総監督に就任している。
クラウスはナチスの党員ではなかったが、このように戦中もドイツ・オーストリアに残って活動していたので、フルトヴェングラー同様、ナチスとの関係に疑いの目が向けられた。
そして戦後1947年の非ナチ化裁判で無罪になるまで、指揮活動を禁止されていた。

戦前の輝かしいキャリアと比較すると、戦後は重要なポストに就くことはなかったが、1953年にバイロイト音楽祭でワーグナーの楽劇『ニーベルングの指環』『パルジファル』を指揮して大成功を収めた。その実況録音は現在、容易く聴くことができる。
因みに、元々この年の2つの演目は、1951年にバイロイト音楽祭が再開されてからその任を担っていたクナッパーツブッシュが振る予定だった。
しかし、クナがワーグナーの孫でバイロイトの総帥であったヴィーラント・ワーグナーと、ワーグナー解釈で対立、この年の出演を辞退したため、クラウスにお鉢が回ってきた。
およそクナとクラウスほど、その作り出す音楽スタイルが異なる指揮者も珍しいであろう。

しかし、そんなクラウスにはあまり時間は残されていなかった。

クラウスの最期

1955年に再建されることになっていたウィーン国立歌劇場の総監督復帰を念願していたクラウス。
ライバルは同じく生粋のウィーンっ子であったクライバーだと思われていた。
しかし、結果的に総監督に就任したのはカール・ベーム。
国立オペラはオーストリア文部省が所轄しているが、時の文部大臣の鶴の一声でベームに決まった。
ベームのパトロンだった財界の大物=金蔓に、オーストリア政府が”忖度”した結果、と言われている。

この結果にショックを受けたクラウスは直後、失意のまま遠くメキシコへ客演。
1954年5月16日、メキシコシティでのコンサートを終えた後、心臓発作のため急逝した。
まだ61歳だった。
最後のコンサートのプログラムには、クラウスお気に入りのハイドン『交響曲第88番 ト長調』が含まれていた。

伏魔殿「ウィーン国立歌劇場」

クラウスがあまりに早く亡くなったので混乱しがちだが、1981年に亡くなったベームはクラウスの1歳年下でしかない。二人は同世代だ。

また同じくライバルであったクライバーも4歳年上に過ぎない。

当時、イギリスの大手レコード・カンパニー、デッカはリヒャルト・シュトラウスとも深い親交があり、彼の作品のスペシャリストであったクラウスとウィーン・フィルによる、シュトラウス作品のレコーディングを進めていた。
そのハイライトとなる楽劇『ばらの騎士』全曲録音は、クラウスの急逝によりクライバーに委ねられ、録音は完成。

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しかしそのクライバーも翌55年に亡くなった。

ベームの一人勝ちのようだが、そのベームですらアメリカで成功を収め、ウィーンへ戻ってきた際、空港で記者団に対し「私はウィーン国立オペラのために、世界に打って出るチャンスをふいにする気はない」と大失言。僅か2シーズンで総監督の座を追われた。

そしてその後、その座についたのはヘルベルト・フォン・カラヤンだった。

ヨハン、ヨーゼフ、リヒャルト

クレメンス・クラウスのレパートリーは極めて広い。
メイン・ストリームはウィーン古典派から後期ロマン派に至るドイツ・オーストリア系の作曲家の作品。しかし、それに加えフランス音楽も得意にし、当時のコンテンポラリーであったシェーンベルクやベルクの作品もよく指揮した。

そんな中でやはりクラウスの名前は、兄ヨハンと弟ヨーゼフのシュトラウス兄弟のワルツやポルカ、そして『アラベラ』『平和の日』『ダナエの愛』『カプリッチョ』というオペラの数々を初演し、深い親交で結ばれたリヒャルト・シュトラウスの作品と深く結びついている。残された録音も多い。

ウィーン、洗練と陶酔

20世紀前半から中頃にかけて活躍した指揮者でウィーン出身の大指揮者は、クライバーとクラウスしかいない。
二人ともその指揮ぶりは無駄を排したシンプルで合理的、そして音楽もスタイリッシュであった。
少し異なるのは、そしてそれが二人のそれぞれの魅力でもあるのだが、クライバーが作り出す音楽が、きっぱりとした辛口のワインだとすれば、クラウスの音楽は、”陶酔”という得も言われぬ深みが際立つ赤ワインか・・・。

今日のターンテーブル動画

既にクラウスのハイドン『交響曲第88番』の動画をご覧いただいたが、やはり今回最後はシュトラウス、それもクラウスの音楽づくりに通じるような、美しく甘美、そして流れるような旋律を持つヨーゼフ・シュトラウスの代表作『天体の音楽』を。
1931年1月の録音。




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