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「無知の知」~見知らぬ歌手との出会い

無知の知

大学時代、哲学科に籍を置いてプラトンを専攻していた。「哲学」というと何か小難しいことを、あーだこーだと捏ね繰り回している、というイメージがあるかもしれない。
しかしプラトンの著作は、ソクラテスを主人公とした「対話篇」、言うなれば戯曲形式で書かれた文学という側面も持っているので、読み進めること自体に大きな困難を伴うものではい。
プラトンが語らせたソクラテスの言葉による哲学には、印象的な言葉、そして考え方が沢山ある。「イデア論」はその代表的なもので、ソクラテスの哲学の根幹をなすものだ。このイデア論も含め、プラトン哲学が追求した大きなテーマに「知識について」がある。「主知主義」という考え方、つまり「『知っている』ということはどういうことか?」という議論や「知った上で行動していなければ、それは正しい行いとは言えない」という定説。そして、その議論の過程の中で「無知の知」という、ソクラテスの真理の探究の仕方の基本的考え方が語られる。
「無知の知」、つまり「自分は(それを)知らないということを知る」ということ。
大学1年の時、こんなソクラテス、そしてそれを対話篇で表現したプラトン哲学の基本を知ってから、「無知の知」は自分が生きていく中でのベーシックな考え方、立ち戻る場所になっている。

さて、今回は別の哲学について綴るわけではない。
音楽を知り、聴くという楽しみの大部分も「無知の知」がきっかけになっているように思うことが度々だと思う。それまで知らなかった音楽やアーティストを知ることによって、そこから広がっていく音楽への興味や聴く喜びは、何にも代えがたい。まだまだ自分が知らない音楽やアーティストが、この世の中にはたくさんいる(いた)という自覚・・・。

音盤の購入動機

最近、いくつかのファクターが揃って、シューマンの女声歌曲(リート)を聴いたり、新たに音盤を手に入れたり、いろいろと調べたり、人と話したりする機会が多い。
個人的にはシューマンの女声歌曲のリファレンスは、エディット・マティス(ソプラノ)の4枚組LPで、「シューマンの歌曲集をどれか一つだけ手元に残していい」と迫られれば、これを挙げることになるだろう。

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しかし、それで満足、すべてよし、ということにはならない。
器楽演奏以上に、やはり歌はそれぞれの歌い手の声ひとつひとつを楽しみに聴くわけなので、いろいろな歌手、音盤をついつい聴きたくなってしまう。

そんな中、先日東京に出向いた際、新宿の中古レコード店に立ち寄った。時間があまりなかったということもあって、一点集中でシューマンの歌曲の棚だけを見た。そして4枚のLPを簡単に試聴して、4枚ともレジに持って行った。

このうち、セーナ・ユリナッチ(ソプラノ)による『リーダークライス』『女の愛と生涯』(画像左)の存在は知っていたし、いつか手にしたいと思っていたものだった。
また、『リーダークライス』を取り上げたローレ・フィッシャー(アルト、中)、アンナ・レイノルズ(メゾ・ソプラノ、左)は、それぞれフリッツ・レーマンカール、リヒターのバッハ・カンタータ録音の常連メンバーだった人だ。だからその存在や歌声は知っていて、気に入っていた。
しかし、シューマンの録音のあるなしを意識したことはなかった。

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そして、もう一枚、ルドゥミラ・コマンツォヴァ(アルト)とイリ・バル(バリトン)を片面ずつ収めた旧チェコスロヴァキア・スプラフォンの10inch盤は初めて目にした歌手とレコードだった。
何の知識もなく、それぞれの面の頭30秒ほど試聴して買うことを決めた。

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皆さんにとって、全く知らない演奏家のレコードを見かけて興味を持ったり、買ったりするファクターは何だろうか?
「収録曲やクレジットされていた共演者が好きだから」「ジャケ買い」「実際に試聴して気に入った」「安かったからあまり考えずに買った」・・・。理由は様々だろうが、こういった関心の持ち方、購入動機こそ、レコードを買って聴く楽しみの醍醐味ではないだろうか?当たりハズレも含め・・・。

ルドゥミラ・コマンツォヴァとイリ・バルのLPはこういったファクターのほとんどが当てはまる。

帰宅後、ルドゥミラ・コマンツォヴァとイリ・バルについて調べてみると、あまり情報は出てこなかったが、いずれもチェコスロヴァキアのオペラハウスで活躍していた人だった。

ルドゥミラ・コマンツォヴァ

今回はルドゥミラ・コマンツォヴァと、彼女が歌ったシューマンの6曲をご紹介。

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ルドゥミラ・コマンツォヴァ(Ludmila Komancová)は、1912年に生まれ、1972年に亡くなったチェコスロヴァキアのアルト。ヴァイオリン演奏にも長けていたという。
ピルゼン市立歌劇場(1932-1935)、ブラティスラヴァ歌劇場(1935-1939)、プラハ国立歌劇劇場(1939-1943)などのメンバーとして活動。1943年から1960年までモラヴィア・シレジア国立劇場のソリストとして、そのキャリアの絶頂期を過ごした。
コマンツォヴァはチェコ語、スロヴァキア語、ロシア語、イタリア語、ドイツ語、フランス語、南スラブ語を操り、40以上のオペラをレパートリーとしていたという。
ディスコグラフィを調べてみたが、ヤナーチェクのオペラなど数点が確認できただけで、決してレコード録音は多くないようだ。しかも、リートに限ればこのシューマンの10inchしか見当たらなかったし、彼女の画像検索をしても数は少なく、あったとしてもオペラの役柄のコスチュームを身につけたものばかりだった。

そんなコマンツォヴァのシューマンのリート。収録曲は以下の6曲。
ピアノはフランティシェク・ラウチ(プラハ・トリオのメンバーでもあった)。

『ミルテの花』Op.25 より
♪ 第7曲『睡蓮の花』(ハイネ)
♪ 第11曲『花嫁の歌1』(リュッケルト)
『リーダークライス』Op.39 より
♪ 第3曲『森の対話』(アイヒェンドルフ)
♪ 第5曲『月の夜』(アイヒェンドルフ)
『詩人の恋』Op.48 より
♪ 第1曲『美しい五月には』(ハイネ)
♪ 第4曲『君の瞳に見入る時』(ハイネ)

『女の生涯と愛』は他の歌曲集と比較して、連作歌曲集の性格が強いことを考えると、10inchi片面の選曲としてはとてもよい、魅力的なもののように思う。

さてその歌声だが、特に豊かで温もりのある低域の部分に耳が奪われる。
と言っても同じアルト(コントラル)で、その低域に一種の迫力を感じる名歌手ナタリー・シュトゥッツマンのような強い個性があるわけではない。強さで歌詞を伝えるようなスタイルとは少し違う。
喩えれば、一本の蝋燭の灯の中、一人でコーヒーやお茶を楽しみながら(ワインやウイスキーと言いたいところだが、アルコールを嗜まないので・・・)夜更けに耳を傾ける、といったシーンが思い浮かぶような歌だ。

【ターンテーブル動画】

改めて「無知の知」あってこその演奏家、音盤との出会いである。
10inch片面全6曲を【ターンテーブル動画】でお楽しみいただきたく。



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