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クレデンザ1926×78rpmの邂逅 #36~ "モラヴィアン・サンダーボルト" マリア・イェリッツァ

マリア・イェリッツァ

マリア・イェリッツァ(Maria Jeritza, 1887年12月6日 ブルノ - 1982年7月10日 ニュージャージー州オレンジ)
彼女はウィーン国立歌劇場(1912-1935)、そしてメトロポリタン歌劇場(1921-1932年、1951年)を中心に欧米で広く活躍したソプラノ・スピント(およびドラマティコ)。

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デビューは1910年、チェコ・モラヴィア地方の中心都市オロモウツでのワーグナー『ローエングリン』のエルザ役。
彼女の声を自身の耳で聴いたオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフは、ウィーン宮廷歌劇場(現ウィーン国立歌劇場)に対し、イェリッツァと契約するよう命じたという。

R.シュトラウスとプッチーニ

ウィーン・オペラのプリマドンナとなったイェリッツェを特に気に入ったのがリヒャルト・シュトラウスである。彼はイェリッツァを自作オペラの初演に起用し、明らかに彼女が演じることを想定して書いた作品もあった。

彼女が初演のメンバーに加わったシュトラウスの作品は
1912年 『ナクソス島のアリアドネ』(アリアドネ・シュトゥツガルト)
1917年 『影のない女』(皇后・ウィーン)
の2作品。    
『ナクソス島のアリアドネ』の第一幕の主役「作曲家」、『影のない女』のもう一人のプリマである「染物師の女房」は、これまたシュトラウスのお気に入りであったロッテ・レーマンだった(レーマンはその他、『インテルメッツォ』初演でプリマの「クリステーネ」も務めている)。
また、世界初演ではなく、それから5日後のウィーン初演ではあったが、1928年『エジプトのヘレナ』のタイトル・ロールは最初からイェリッツァを想定して作曲された(ドレスデンの世界初演への参加は、イェリッツァへの高額のギャラの支払いをゼンパーオーパーが拒否したため実現しなかった)。

リヒャルト・シュトラウスは晩年の名作『4つの最後の歌』の第2曲『9月』をイェリッツァ夫妻に、そして、死の約1年弱前の1948年11月23日、遺作となった歌曲『葵』を完成、それをイエリッツァに捧げた。献辞には「愛するマリアへ。美しい最後のバラを」と記されていた。イェリッツァは彼女が亡くなるまでその楽譜を誰にも見せなかった。

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イェリッツァは1921年11月16日、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場にデビュー。その役柄は北米初演となったプッチーニの『トゥーランドット』のタイトルロール。
リヒャルト・シュトラウスと同時期のオペラの天才、ジャコモ・プッチーニもイェリッツァに魅せられた作曲家であった。

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ウィーンとニューヨーク、当時のオペラの二大拠点でプリマとして活躍したマリア・イェリッツァ。
人は彼女のことをその出身地から”モラヴィアン・サンダーボルト”と呼んだ。

【ターンテーブル動画】

手元に何枚かの78rpmがあるが、今回はその中からワーグナープッチーニをクレデンザ蓄音機で。
イェリッツァの78rpmその多くが電気録音ではなく、1920年代中頃以前のアコースティック録音でオーケストラも小規模にリアレンジされているが、彼女の気高く力強い女神のような歌声は堪能できる。

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ワーグナーは『タンホイザー』よりエリーザベトの『歌の殿堂のアリア』『エリーザベトの祈り』
プッチーニは『トスカ』より『歌に生き、愛に生き』
なお、『歌に生き、愛に生き』の前半に盤のコンディションに由来する歪があるが、ご容赦いただきたい。






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