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クレデンザ1926×78rpmの邂逅 #91~ボイド・ニール/ボイド・ニール弦楽オーケストラ モーツァルト『アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク』

バロック弦楽アンサンブル

私がクラシックの深い森に足を踏み入れた1970年代終盤から1980年代初頭に、バロックの弦楽アンサンブルを聴く、と言えばそれはすなわち、カール・ミュンヒンガーシュトゥッツガルト室内管弦楽団ネヴィル・マリナーアカデミー室内管弦楽団イ・ムジチ合奏団ジャン=フランソワ・パイヤール彼の室内管弦楽団、それに強いて言えばクラウディオ・シモーネイ・ソリスティ・ベネティからの5択、ということに相成った。

その後、フランツ・リスト室内管弦楽団という強者が登場し、コレルリ(Op.6)、ヴィヴァルディ(Op.3)、ヘンデル(Op.8)という三大合奏協奏曲集をリリース、その強靭かつしなやかで楽興溢れる音楽づくりに個人的には大いに魅了された。

名称未設定のデザイン (73)

ボイド・ニールと彼の弦楽オーケストラの名前を知らなかったわけではない。当時デッカ(ロンドン)・レーベルを扱っていたキングレコードのカタログに、彼らが1950年代に録音したバロック音楽のレコードは残っていた。
ただし、お伝えしたような現役バリバリのアンサンブルが満足の行く音盤を出してくれていたので、彼らの古いモノラル録音を聴こうとは思わなかったし、そもそも聴き較べができるほど、財布の中は潤ってはいなかった。

従って、ボイド・ニールの音楽に真正面から向きあったのは、ここ20年くらい、プロダクツとしての1950年代のLPに魅せられてからのことだ。

Boyd Neel, 1905年7月19日ロンドン - 1981

ボイド・ニール

ボイド・ニール(Boyd Neel, 1905年7月19日ロンドン - 1981年9月30日トロント)は元々は医学の道を志し、外科医として勤務していた。
しかし、音楽愛好家であった彼は、1932年、王立音楽院と王立音楽大学に要請されて自分の名前を冠した弦楽合奏団を組織することになった。翌33年にロンドンでお披露目公演が行われ、デッカ・レーベルと1979年までという長期の専属契約も結び、音楽楽活動に専念するようになった。

また、1952年にトロント王立音楽院の部長に招聘されて以降、カナダとも深いつながりを持ち、61年にはカナダに帰化した。

そんなニールと彼の弦楽オーケストラの代表的音盤と言えば、ヘンデル『合奏協奏曲集』作品8の3枚揃い全12曲だろう。

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イギリスは元々バロック音楽の弦楽合奏には伝統を持った国で、アカデミー室内管弦楽団やイギリス室内管弦楽団、そしてピリオド時代にはクリストファー・ホグウッドエンシェント室内管弦楽団トレヴァー・ピノックイングリッシュ・コンサートという2大巨頭以外にも、様々なアンサンブルを世界に輩出している。
ボイド・ニール弦楽オーケストラは、まさにその先駆けだ。

アカデミー室内管弦楽団以降のグループが、少なからず時代考証や演奏法に一定の見識を向けたのと比較すると、ボイド・ニールの作り出す音楽は生温い、と思われるところもあろう。
しかし、弦楽器の、弦を弓で擦って発音させるという行為の美しさ、格式の高さ、そしてほんの少しだけロマンの方向へもたれ掛かるような、テンポの揺らぎから生まれる絶妙なニュアンス(チャーミング!)には心奪われるものがある。

【ターンテーブル動画】

今回はそんなボイド・ニールと彼のアンサンブルが、恐らく1940年代の78rpmからLPの移行期少し前に録音したと思われるモーツァルトのセレナード『アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク』の2枚組78rpmをクレデンザ蓄音機で。

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第1楽章の小粋な進め方、第2楽章の「ロマンツェ」という名づけ通りのパステル画の色の濃淡にため息が出るかのような音楽・・・。聴きどころ満載だ。




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